なにもしらない

アニメ、音楽、本、映画、ゲーム、インターネット

ノーコメント

僕'「あいまいなものなど無くなってしまえばいい。かつてグラスリップというアニメがあった。サンキュータツオ氏はあれを、アニメで純文学をやろうとした挑戦的な作品、と言ったが、とてもそうは思えない。視聴者を無視した作品は単なる自慰行為に過ぎない(実際全然売れなかったのだ)。そもそもとして、わかりやすさを放棄した作品が読まれない、観られないのは当然のことであり、故にそれらは淘汰されても仕方のないものである。そういう選択をしたのは作り手自身であるからだ。ところで、この間読んだ『アーサーとジョージ』は(エンタメとして)完璧な小説だと感じた。ああいう作品こそ残っていくべきであるし、実際残っていくのだろう」

僕''「あいまいなものこそ残すべきである。わかりやすさ、正確さよりも大事なことがある。『文学会議』という小説がある。あの小説において、正確性は大して重要ではない。とんでもない描写が積み重なる。ストーリーはめちゃくちゃだ。しかしながらそのとんでもない描写自体に味わいがある。それは単なる計算では到達できない素晴らしいものである。わけのわからないものの素晴らしさ、頭でっかちではなく心で感じることのできるもの、悲しみとも怒りとも、どの感情ともリンクしない感動を得ること、それは人間の生活をより豊かにするものである」

僕'''「別にそんな極端なことを言わなくても、わかりやすいものもあいまいなものも、どちらも共存したって良いのではないか。エンタメにはエンタメの良さ、アートにはアートの良さがあるはずで、どちらか片方を取らなくてはいけないというのがそもそも間違っている。『アーサーとジョージ』も『文学会議』もどちらも面白い、それでいいではないか」

僕''''「AにはAの良さ、BにはBの良さがあるので・・・・・・のような、全方位外交的態度を取ることに何の意味があろうか。僕は評論家でもなんでもない。ただの一般人が何を好きになろうが嫌いになろうが自由であるはずだ。自分の言いたいことを言えばいい。ポップスが好きならポップスが好きといえばいいし、インディーロックが好きならそう言えばいい。メタルが嫌いならメタルが嫌いと言えばいい。その自由をなぜみすみす捨てようとするのだ」

僕「・・・・・・(無言)」

アーサーとジョージ

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文学会議 (新潮クレスト・ブックス)

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わからない人を書かない、わかってもらえない人に書かない【追記あり】

皆よく知らない人について数少ない情報を元に好き勝手書くよね。今なら乙武洋匡。ちょっと前は清原。もっと前はベッキー。でも、大抵の場合、それって自分の妄想が作り出した乙武洋匡清原和博であって、その人自身を語れてるわけではない。まあ、でも彼らならまだいいのかもしれない。芸能人だから言われてもしょうがないってところはあるかもしれない。だから言っていいってわけでもないけど。

僕としては、ある人に対して限られた情報からアレコレ妄想するのは失礼だっていう気持ちがあるから、あんまり大したこと書けないのだ。この前のゲーム機バキバキの時も、約束を守らなかったからゲーム機を壊していいなんて間違っている、みたいなことを書いた。事実として書ける、というか、確実なものとして書けることってこれくらいしかなかったのだ。いや、他にも、昔親に虐待されていたらしいとか、音楽家って基本的にそういう傾向がとか、そういうのがネットニュースやらなんやらで流れていたけども、確実かと言われればそうではない。昔親に虐待されていた人間は子供を虐待するのか、と言われたら、そういう人もいるしそうじゃない人もいるでしょうと思うわけだ。ならば彼女は親に虐待されたからゲーム機を壊したのか、それはわからない。音楽家にそういう過激な傾向があるとして、彼女が音楽家的な気質をどれだけ受け継いでいるのかなんてわからない。ならば音楽家的な気質を受け継いだからゲーム機を壊したのか、そうではないのかはわからない。わからないことは書けない。

アドバイス罪というのがある。最近はクソバイスって言うんだっけか。普通にツイッターを使ってたら、別にツイッターじゃなくてもいいか、はてなブログを使って、はてな匿名ダイアリーを使って、辛いこととか悩んでることとか書きたくなる。すると解決法を教えてくれたりする。でもここでまず問題になるのが、解決するためにインターネットに悩みや苦しみを書いたのかどうかってことだ。解決なんてどうでもよく、ただ吐き出したくて書いただけならば、アドバイスされること自体が不快だ。じゃあ逆に、解決するために書いたとしよう。残念ながらインターネットの人たちは僕(あなた)のことをそんなにわかってない。考えるまでもない。アタリマエのことだ。そんな何でもかんでもインターネットに書くかと言われたら書かない。その中で悩みを解決しようとするとどうなるか。インターネットに書かれた限られた情報から妄想を広げて個人を作り上げ、そいつに向かって書くことになる。当然「そいつ」はとある人間の脳内にしか住んでない個人である。実際の人とは違う。だから大抵の場合、的外れな、頓珍漢なアドバイスが出来上がり、でそれを受け取った個人は困惑することとなる。まあそうじゃないこともあるだろうけど、僕の考えとしては上記の通りである。そして上記の通りなので、僕はインターネットに絶対自分の悩みを書かないし、自分がどういう苦しい状況にいるかを書かない。よくわからない人たちによくわからないなりのアドバイスもしない。

僕を知らない人によくわからんアドバイスをもらって気分が悪くなるくらいなら、何も言わないほうがマシだ。あるいは、知らない人によくわからんアドバイスを与えて気分を悪くさせるくらいなら、何も言わないほうがマシだ。少なくともインターネットにおいては。

でも、わからない人を書かないし、わかってもらえない人に書かない、このスタンスが果たして良いことなのだろうか、とも思うことがあるので(それっていくらなんでも不自由すぎやしないかっていう)、別にこの意見を参考にしなくてもいいです。

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

似たようなことが書かれていた気がする。

【追記】
とか書いたそばから、少女監禁事件について好き勝手語る人がわんさか出てきてうげえってなってる。少女と男が具体的にどういう生活を送っていたのか、何一つはっきりした情報が出てきていない、穴だらけの状態であるにもかかわらず、勝手に行間を埋めて物語を作ってしまう人々があまりにも多くないか。仮説を立てるのは勝手だが、それをまるで事実であるかのように運用しちゃダメだろう。僕が思うだけだけど。

性的メタファーは性的なのか

内心の自由を制限することはできない。内心の自由を制限するってのは洗脳とそんなに変わらない。ゆえに制限するとしたら現実世界にあるものそれ自体に制限をかけるしかない。



もし性的な何かを連想させるものをアウト、とすると、あらゆるものがアウトになりかねない。この前男根のメタファーとかいう馬鹿馬鹿しい話があったけども、誰かがそれを何かのメタファーだと認識した途端、アウトな表現となるならば、あらゆる表現がその可能性を免れない。

また、メタファーだからアウトってのは、内心の自由を侵害するとこにちょっと足踏み入れてない? と思うところもある。

例えば有名な話だが、千と千尋の神隠しにおける油屋、あれはソープランドがモデルになっていると言われている。少なくとも宮﨑監督本人はそう言っている。そう考え出すと、油屋で起こる色々な出来事に何らかの性的メタファーが潜んでいるように思えてくる。しかしぱっと見はそんなのわからない。というかわからなくても全然問題がないつくりになっている。

事実、千と千尋の神隠しはゴールデンタイムに流しても問題ないものとして普通に放送されているわけだし、誰もそれをおかしいことだとも思っていない。そしてそのことには何の問題もない。油屋をソープランドだと解釈しないかぎり、あれはソープランドにはならない。別に宮﨑駿の思い通りに深読みする必要はない。

抽象的に言うならば、個人の内心がそれを性的なものに変換しない限り、それは性的なものにはならない。だから乳首が出てるからR-18とか、そういう誰が見てもわかりやすい制限になるわけだ。

そもそも性的なものであるからそれをアウトにしていいのか、って問題はまた別の話。