なにもしらない

アニメ、音楽、本、映画、ゲーム、インターネット

恥ずかしいセリフを禁止しない

かつてARIAを見ていて(読んでいて)癒やされつつも思っていたことは、これは恥ずかしいセリフにツッコミを入れる作品ではないんだな、ということだった。確かに物語内では、メインキャラクターの一人(藍華)が主人公(灯里)のポエムな発言に対していちいち「恥ずかしいセリフ禁止!」とツッコミを入れている。しかしそこに感情移入するとコメディになってしまう。一応この作品は「未来形ヒーリングコミック」というキャッチコピーが付いているわけで、つまり癒されることを目的として読むものだと思う。だからこの漫画を心から楽しもうとするならば、藍華の繰り出す「現実」ではなくて、灯里の発する「理想」に全力で乗っかった方がいい。そしてそのためには灯里的な心理状態を自分の中に作っておく必要がある。そうすれば、灯里の見つける(常人には見つけることのできない)美しい、素晴らしい世界を全力で受け止めることができる。かつてARIAの面白さが全くわからないと言った友人がいたのだが、僕の考えでは灯里的なピュアさを自己の中に見出すことに対して照れがあったり、嫌悪感を持っていたからではないかと思っている。あるいは端から彼の中には灯里的なピュアさ、もっと言えば天野こずえ的なピュアさが存在していなかったか。当然そういう人もいるだろう。皆が皆あの世界を受け入れられるわけではない。

そして実際、続編のあまんちゅ!では恥ずかしいセリフを禁止するキャラがいなくなる。読者がツッコミ役に回ったのだ、と言っている人もいるが、僕はそうは思わない。元々ツッコミ役なんて必要なかったのだ。天野こずえ作品というのはそういうものだ。

人間が刺されることについて

SNSの登場で変わったのが、あらゆる人々がコンテンツ化されるようになったってことだと思っている。一方的にテレビを見て芸能人を見て笑ってた人々が、あらゆる人から笑われる側になった、あるいはあらゆる人を笑う側になった。一方的に消費する側だったのが、お互いがお互いを消費しあう状況になった。いわば「万人の万人に対する消費状態」である。良いんだか悪いんだかは知らない。

だからTwitterで、Instagramで、hatenaで、もしくは現実世界のどこかで人気になるってことはつまり、誰かから(物理的に、あるいは精神的に)刺されるかもしれないってことでもある。

あなたが人気者になったとしよう。すると刺してくる人が現れる。あなたは「私に幻想を抱くのはやめてください」「私はキャラクターでも偶像でもなく実在の人物なんです」とでも言うのかもしれない。これでわかってくれる人はいる。しかしそうじゃない人もいる。アイドルの握手会にのこぎりを持って突撃してくるような人間には通じないだろう。シンガーソングライターをめった刺しにするような人間にも通じないだろう。世の中にはそういう人間が確実に存在する。この場合どうだ。人気になるリスクを考慮しないあなたが悪いのか? それとも刺したそいつが悪いのか? まあこれはいい。言うまでもなく刺したやつが悪い。いじめられている人間にも原因があるなんてめちゃくちゃな言い分が許されないのと同じだ。

重要なのはそこでどうするかってことだ。刺したやつが悪かろうがなんだろうが、実際あなたは痛い思いをすることになるわけで、それに対して何らかの対処はしなくちゃいけない。じゃあどうするか。刺されても刺されていないかのように振る舞うか(しかし痛みは残る)。刺してくる人間が現れる度にそいつを警察に突き出せばいいのか(しかし精神的疲労は免れない)。刺してくる人間が出てこないような何らかのシステムを作ればいいのか(しかしそれは当然、刺してこない人間に対しても制限をかけることになる)。刺されない程度の発言をする控えめアカウントとして生きるか(しかし、あなたには発言の自由がなくなる)。最悪その場から逃げるか(しかし、あなたはあなたの居場所を一つ失うことになる)。

どれが幸福なのか? それらに幸福はあるのか?



もういいや、言いたいことを言う。
人間がめった刺しにされた事件をアイドル論や何やらの遠い話として処理するのをやめろ。これは「人間が人気になると人間から刺される可能性がある」話であって、そこにアイドルだからとかシンガーソングライターだからとか「庶民ではない特別な肩書」みたいなものを使って逃げるな。

ノーコメント

僕'「あいまいなものなど無くなってしまえばいい。かつてグラスリップというアニメがあった。サンキュータツオ氏はあれを、アニメで純文学をやろうとした挑戦的な作品、と言ったが、とてもそうは思えない。視聴者を無視した作品は単なる自慰行為に過ぎない(実際全然売れなかったのだ)。そもそもとして、わかりやすさを放棄した作品が読まれない、観られないのは当然のことであり、故にそれらは淘汰されても仕方のないものである。そういう選択をしたのは作り手自身であるからだ。ところで、この間読んだ『アーサーとジョージ』は(エンタメとして)完璧な小説だと感じた。ああいう作品こそ残っていくべきであるし、実際残っていくのだろう」

僕''「あいまいなものこそ残すべきである。わかりやすさ、正確さよりも大事なことがある。『文学会議』という小説がある。あの小説において、正確性は大して重要ではない。とんでもない描写が積み重なる。ストーリーはめちゃくちゃだ。しかしながらそのとんでもない描写自体に味わいがある。それは単なる計算では到達できない素晴らしいものである。わけのわからないものの素晴らしさ、頭でっかちではなく心で感じることのできるもの、悲しみとも怒りとも、どの感情ともリンクしない感動を得ること、それは人間の生活をより豊かにするものである」

僕'''「別にそんな極端なことを言わなくても、わかりやすいものもあいまいなものも、どちらも共存したって良いのではないか。エンタメにはエンタメの良さ、アートにはアートの良さがあるはずで、どちらか片方を取らなくてはいけないというのがそもそも間違っている。『アーサーとジョージ』も『文学会議』もどちらも面白い、それでいいではないか」

僕''''「AにはAの良さ、BにはBの良さがあるので・・・・・・のような、全方位外交的態度を取ることに何の意味があろうか。僕は評論家でもなんでもない。ただの一般人が何を好きになろうが嫌いになろうが自由であるはずだ。自分の言いたいことを言えばいい。ポップスが好きならポップスが好きといえばいいし、インディーロックが好きならそう言えばいい。メタルが嫌いならメタルが嫌いと言えばいい。その自由をなぜみすみす捨てようとするのだ」

僕「・・・・・・(無言)」

アーサーとジョージ

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