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「更生したイジメっ子」を世間が許さないなら【追記】

https://togetter.com/li/1096750
高校時代にイジメ被害者に会った女性が美容院でいじめていた相手に遭遇した時の話 - Togetterまとめ

僕があらゆる失敗に怯えてしまうのはこれが原因だ。自分が誰かにしてしまった失敗を相手は忘れない。「自分が昔した失敗に対して何らかの感情を持っている人間に文句を言われる」可能性は常にある。昔相手を虐めた人間は絶対に許されない。一生許されない。それは正しいことだと皆が考えているし、実際正しい。つまりはそういうことなんだろう?

人は失敗に学ぶとかなんとか言うが、その失敗によってもたらされた相手に対する不快はどうなるのさ。相手がそれをあっさり水に流してくれるなんて、僕にはとても思えない。

「失敗に学ぶ」って、元不良が昔悪かったんだけど今は更生した的な話とそんなに変わんないんじゃないかと思うんだよな。単に規模が違うだけで。自分の中だけの問題にすり替えちゃうっていうかさ。相手がいなくなるっていうかさ。もちろん相手のことを考えてはいるんだけど、コミュニケーションはもはやなくて、自分の中で反省して次はこうしようって思った瞬間、相手は過去の存在になっちゃうわけだよね。相手の不快が消え去ったかどうかはわからないのに。

「果たしてこれは十年後の自分の足を引っ張らない行為だろうか。自分の大切な人が見たら何と言うだろうか」と問われたら、さっさと死ぬのが一番手っ取り早いですね、と僕は返すだろう。その問は僕にとっては理想論過ぎる。自分がとんでもないことをしでかし相手に不快を与える可能性からは逃れられないので、それを確実に回避するためには死を選ぶしかない。僕は(未来の)自分のことをそれほど信用していない。未来の自分なんてもはや別人だからね。過去の自分が別人であるのと同様に*1


【追記】
この文章を書いたのには理由がある。「この人たちはあのまとめを読んで自分もいつか誰かに復讐されてもおかしくないなと考えないのか」とショックを受けたからだ。自分には相手を酷い目に合わせた経験があるのだが、他の人たちにはないのか。ないからこんなに素直にそうだそうだと言っていられるのか。皆そんなに善人なのか。ドラマ『カルテット』じゃないが、「グレー」な部分は存在しないのか、と。

*1:僕は「人生とは自分によく似た他人の責任を延々と取らされるようなもの」だと思っている。例えばテンションが上がりまくった後に我に返って、あの時調子に乗ってたあいつは誰だ、と思ったり、逆にめちゃめちゃ落ち込んだ後に我に返ってあいつは誰だ、と思ったり。ちょっと前までAにハマってたのが、今はBにハマってたり。Aこそが正しい意見だと思ってたのがすぐBに変わったり。そしてかつてAと思っていた自分を自分だとはとても思えなくなる。しかしそのどれもを「自分」として引き受けなければならない。つまりそれは「自分によく似た他人の責任を延々と取らされるようなもの」だ。

(アニメか?)どうかはどうでもいい

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ポエムとエッセイの合いの子みたいな中途半端な文章を、どでかいポスターにしてコピーとして公式に公開しちゃってるあの感じが本当に読んでいて辛い。(アニメか?)というフレーズがアニメをdisってるのでは、ということで批判が集まっていたようだが、僕としてはアニメをバカにしているとかそんなことはどうでもいい。そこに限った問題ではない。そもそもあの文章そのものが酷い。端的に言えば文章が下手である。読んでいて背筋がゾワゾワする。

世の不条理。人の弱さ。魂の気高さ。生命の尊さ。男の落胆。女の嘘。
行ったこともない街。過ぎ去った栄光。抱いたこともない希望。

お前は中学生か。とツッコミを入れたくなるような、実家の黒歴史ノートを引っ張りだしたら書いてありそうな痛々しい言葉がズラッと並ぶ。

もっと感覚的な部分で言えば、「アニメか?」が辛いのは言わずもがなだが、語尾につく「じゃないか」も割と読んでいて辛い。特に辛いのは最後の「繰り返す」。なんというか全体的に、文章から作者の自意識が透けて見えるのだ。これ本当にコピーのつもりで書いてるのか? と疑ってしまうくらいに。

つまりアニメを馬鹿にしてるのが酷いというよりかは、わざわざカッコつきで「アニメか?」などと語尾につけてしまうその自意識が辛い。これを自分のブログに書くなら全然いい。ただこれが載ってるのは芥川賞直木賞を公式に宣伝するポスターなわけだ。文学賞を宣伝する文章がポエムとエッセイの合いの子でいいのだろうか、って話だ。たとえばもし僕のブログ記事の一つが大手広告代理店のデカい宣伝物に使われるとなったら、いくらなんでも正気を疑う。電◯さん、そういうレベルのことをしてますよね、って話だ。

腹が立つとかは全然思わない。バカじゃないの、と思う。

恥ずかしいセリフを禁止しない

かつてARIAを見ていて(読んでいて)癒やされつつも思っていたことは、これは恥ずかしいセリフにツッコミを入れる作品ではないんだな、ということだった。確かに物語内では、メインキャラクターの一人(藍華)が主人公(灯里)のポエムな発言に対していちいち「恥ずかしいセリフ禁止!」とツッコミを入れている。しかしそこに感情移入するとコメディになってしまう。一応この作品は「未来形ヒーリングコミック」というキャッチコピーが付いているわけで、つまり癒されることを目的として読むものだと思う。だからこの漫画を心から楽しもうとするならば、藍華の繰り出す「現実」ではなくて、灯里の発する「理想」に全力で乗っかった方がいい。そしてそのためには灯里的な心理状態を自分の中に作っておく必要がある。そうすれば、灯里の見つける(常人には見つけることのできない)美しい、素晴らしい世界を全力で受け止めることができる。かつてARIAの面白さが全くわからないと言った友人がいたのだが、僕の考えでは灯里的なピュアさを自己の中に見出すことに対して照れがあったり、嫌悪感を持っていたからではないかと思っている。あるいは端から彼の中には灯里的なピュアさ、もっと言えば天野こずえ的なピュアさが存在していなかったか。当然そういう人もいるだろう。皆が皆あの世界を受け入れられるわけではない。

そして実際、続編のあまんちゅ!では恥ずかしいセリフを禁止するキャラがいなくなる。読者がツッコミ役に回ったのだ、と言っている人もいるが、僕はそうは思わない。元々ツッコミ役なんて必要なかったのだ。天野こずえ作品というのはそういうものだ。