なにもしらない

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「他人の人生を批評するのをやめろ」

あまり気分の良い文章にならなかった。


ここ一週間インターネットで積もりに積もった何かが爆発した。「他人の人生を批評するのをやめろ」という言葉が浮かんだ。生活を批評したくない。大勢が日常を書くブログでこんなこと言うのもあれだけど生活を批評したくない。生活における不満とか不満の解消とか、そういうコンテンツを見たときに、それが正しいことなのかどうか考えたくない。家族内でうまくいってません、個人でうまくいってません、なるほどあなたにはこんな問題があるんじゃないか、夫に奥さんに子供にこんな問題があるんじゃないか、あるいは僕は私はこういう方法を使って解決しました、なるほど素晴らしい解決策だ、素晴らしい素晴らしい、いやそれは解決になっていない、新たな問題を生んだだけじゃないか、解決したと思っているのはあなただけ、相手はそう思ってないんじゃないか、どうでもいい、ほんとうにどうでもいい、知るか、うるさい、だまれ、何で他人の生活の正しさを評価できると思ってるのか、何様だ、お前は何様だ、僕は何様だ、神様にでもなったつもりか、責任も取れないのに相手のことも大して知らないのに何でそんな、偉そうに、ああ腹が立つ、自分に腹が立つ、評価をやめられない自分に腹が立つ。生活に正しいもクソもあるか、生活はただ成立しているかしていないかだけだ、それ以上でも以下でもない。人格が極めて素晴らしい人間だけで構成される生活こそが正しいのか、そんなわけあるか。そうだろ、あらゆる種類の生活が、男だろうが女だろうが、LGBTだろうがそれ以外だろうが、ミュージシャンだろうがアイドルだろうが五体不満足だろうが、人間は生きてる、同じ生活なんてありえない、正しい生活なんてない。DVはどうなんだ、虐待はどうなんだ、うるせえそれはただの犯罪だ、僕の評価なんか要るか。

 

僕は物語の登場人物がクズかどうかで物語の面白さを判断したくない、さくらももこのエッセイをさくらももこの性格の悪さによって否定したくない。何も、一切何も考えずにただ楽しみたい。ただそれだけなんだ。

ポケモンGOが超流行っていた時に書いた文章

東京に行って東京の公園を巡りつつポケモンをゲットしようと思っていた。しかし様々な公園がポケストップを停止してくれと言っているようだ。僕が行く前に僕の行きたい場所が制限されていく。どうしようもない。

ゴミをポイ捨てする人が出てるらしい。物を壊す人も出てるらしい。車を路駐する人も出てるらしい(これは名古屋の公園だったっけ)。僕はそういう迷惑行為、したことがない。そいつが迷惑行為をするのを止める勇気が僕にはない。

単純に人が増えたからその分おかしな人も増えた、と考えるのが妥当だろう。

ポケストップを除去したらあとで後悔するぞ、というようなことを言っている人もいた。それはポケモンGOが地域内で一種の社会的脅威になっていることを正当化するものではない。「いずれ少なくなる」? いずれ少なくなることは今の脅威とは関係ない。"今"困ってるんだから。

東京に行くことで僕は"迷惑なポケモンGOユーザー"の一人としてカウントされてしまう。これはものすごく理不尽だ。僕はメディアで批判されるような迷惑行為をしていないわけだから。けれども単純に「人が集まること自体が迷惑である」という話なら、その通り、見事僕は"迷惑なポケモンGOユーザー"の仲間入りを果たすことになる。

昔アニメオタクはアニメを見ているただそれだけの理由で差別されてきたらしいが、今度は歩いているだけで差別される。立ち止まってスマホの画面を下から上に動かしていると差別される。

「更生したイジメっ子」を世間が許さないなら【追記】

https://togetter.com/li/1096750
高校時代にイジメ被害者に会った女性が美容院でいじめていた相手に遭遇した時の話 - Togetterまとめ

僕があらゆる失敗に怯えてしまうのはこれが原因だ。自分が誰かにしてしまった失敗を相手は忘れない。「自分が昔した失敗に対して何らかの感情を持っている人間に文句を言われる」可能性は常にある。昔相手を虐めた人間は絶対に許されない。一生許されない。それは正しいことだと皆が考えているし、実際正しい。つまりはそういうことなんだろう?

人は失敗に学ぶとかなんとか言うが、その失敗によってもたらされた相手に対する不快はどうなるのさ。相手がそれをあっさり水に流してくれるなんて、僕にはとても思えない。

「失敗に学ぶ」って、元不良が昔悪かったんだけど今は更生した的な話とそんなに変わんないんじゃないかと思うんだよな。単に規模が違うだけで。自分の中だけの問題にすり替えちゃうっていうかさ。相手がいなくなるっていうかさ。もちろん相手のことを考えてはいるんだけど、コミュニケーションはもはやなくて、自分の中で反省して次はこうしようって思った瞬間、相手は過去の存在になっちゃうわけだよね。相手の不快が消え去ったかどうかはわからないのに。

「果たしてこれは十年後の自分の足を引っ張らない行為だろうか。自分の大切な人が見たら何と言うだろうか」と問われたら、さっさと死ぬのが一番手っ取り早いですね、と僕は返すだろう。その問は僕にとっては理想論過ぎる。自分がとんでもないことをしでかし相手に不快を与える可能性からは逃れられないので、それを確実に回避するためには死を選ぶしかない。僕は(未来の)自分のことをそれほど信用していない。未来の自分なんてもはや別人だからね。過去の自分が別人であるのと同様に*1


【追記】
この文章を書いたのには理由がある。「この人たちはあのまとめを読んで自分もいつか誰かに復讐されてもおかしくないなと考えないのか」とショックを受けたからだ。自分には相手を酷い目に合わせた経験があるのだが、他の人たちにはないのか。ないからこんなに素直にそうだそうだと言っていられるのか。皆そんなに善人なのか。ドラマ『カルテット』じゃないが、「グレー」な部分は存在しないのか、と。

*1:僕は「人生とは自分によく似た他人の責任を延々と取らされるようなもの」だと思っている。例えばテンションが上がりまくった後に我に返って、あの時調子に乗ってたあいつは誰だ、と思ったり、逆にめちゃめちゃ落ち込んだ後に我に返ってあいつは誰だ、と思ったり。ちょっと前までAにハマってたのが、今はBにハマってたり。Aこそが正しい意見だと思ってたのがすぐBに変わったり。そしてかつてAと思っていた自分を自分だとはとても思えなくなる。しかしそのどれもを「自分」として引き受けなければならない。つまりそれは「自分によく似た他人の責任を延々と取らされるようなもの」だ。