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魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語 感想 補足(ネタバレ無し)

まどか☆マギカは実際脚本は全くおかしくない。なぜこうなったのか、どうしてそうなったのか、そのあとなんでああなっちゃったのか、というのはきちんと説明されている。それを納得できるかできないかというのは人それぞれだろうが。キルラキルのようにつじつまが合うかどうかなんてほっといてノリで押し切るタイプの話ではない。あの花の脚本のように「結局めんまって幽霊なのあれどういう生き物なの」って言われて返事に詰まることはない。まどマギはちゃんとそこに答えがある。

 

しかしシャフト・イヌカレーという二大個性派アニメ集団が、この作品をさらにアングラなものにしている。

まずシャフト。シャフトの描くものというのは基本的に普通のアニメから逸脱している。止め絵の多様すぎるくらいの多様や、文字をバーンと見せてそれだけで映像として成立させてしまうところ。現実的にありえない建物が出てきたり、例えば化物語で忍野忍が暮らしてた廃墟での、あのわけのわからない机の組み方や、月詠-moon phase-で、自宅がまるでコントのセットみたいになってるところや、そういうもうありとあらゆる、悪い言い方をすれば突っ込みどころのあるモノが大量に配置されている。しかしあれらに向かって「あの机の組み方おかしいだろ、どういうバランスでつったってんだあれ」「家なのにセットみたいに見せちゃ駄目だろ」とか突っ込むのは明らかに野暮である。シャフト作品を愛している人々はあれがおかしいってことは分かってるのだ。わかっている上で、あれらを愛しているのだ。愛しているとまでは言わずとも、ある程度アニメを好きな人ならあそこにツッコミ入れようとは思わないだろう。あれこそがシャフトの個性であり良い所であり表現なのだと。

イヌカレーも同様、例えば絶望先生の何話か忘れたけど、彼らの個性を存分に発揮した回があって、僕はそれをもうとっても楽しんで見たのだけれど、あれをおかしいと言ってしまってはオシマイだと思う。まどか☆マギカにおいても、魔女世界や魔女のデザインだけではなく、机のデザイン、教室のデザイン(なぜかガラス張りになってる)*1、など様々なところで関わっている。

 

あれらは表現、つまりはアートなのだ。

 

それらに気を取られてしまうのはよくない。

映像作品的な部分があると言ってたのはそれで、あれらは素晴らしい、個性的な、アーティスティックな表現であり、それを楽しむことも確かに大事だが、そこに完全に気を取られてしまわないほうがいい。一旦あれはあれで置いといて、土台にあるストーリーに対してもきちんと目を向けないといけない。そうしないとこの作品はただかっちょいい映像が流れるだけの何か~ストーリーもあった、ような~で終わってしまう。

*1:ソースは岡田斗司夫 ※聞き間違いだったみたいです。