サブカルブログって程でもない

アニメ、音楽、本、映画、インターネット

「虚構新聞dis」について

今、虚構新聞をdisるのがブロガーの間でブームになっている。

それらdisを読むと「うーんやはり虚構新聞てのは悪質なサイトだったのかなあ」と思ってしまう。

しかし去年虚構新聞が騒がれた時には、虚構新聞に対して全然悪意を持っていなくて、むしろあれに騙される人ざまあみろというくらいに思っていたのだ。だから、今積極的に批判されるようになったからといって簡単に考えを変えるのは、余りに流されやすすぎるのではと思ってしまう。確かにブロガーたちが言っていることに納得できている*1自分は居るのだけど、でもやっぱりそこであっさり納得したくない自分もいる。

なぜだろう。

 

一つは多分子供なんだろう。僕は民衆に比べたら*2愚かではないという優越感がほしいんだろう。

 

二つ目は、この場合、批判の対象が人間であるからだ。人を傷つけるかもしれないことに簡単に答えを出すのはあまり良いことだと思えないのだ。

最悪、人じゃない何かに答えを出して間違っていても、嫌な思いをするのは自分だけで済む。しかしそれと人を傷つけるかも知れない何かを攻撃してしまうのとでは、迷惑のかかる範囲が違う。僕が悪いじゃ済まないのだ*3

 

三つ目は、皆が言い出したから賛成し始めた意見、それは本当に僕の意見なんだろうかという疑問があるからだ。

恐らくそのきっかけになった大きな理由が震災だ。震災時、Twitterで多くの人が様々な情報を流してきた。それを正しい情報なのか間違った情報なのかもわからぬまま、なんとなく良さそうと思ったものを反射的に飲み込んでしまい、結果、僕は思い出したくもないような酷いことをたくさん発信してしまった。それに気付いた後、酷く反省した。流されるままに考えを吐き出したことを恥ずかしく思った。

だから今回(今回に限らないけれど)、この流れの中で漠然とdisに乗るのはやめておこうと思ったのだ。

他の人の意見だからではなく、自分がどう思うかが一番重要である*4。そのためには、少なくとも声が最も大きくなっている時期にそこに乗っかるのは、流されて言っているのか、自分の考えとして言っているのか、自分でも判断がつけられないからやめたほうがいいのではないか。博識な人々ならともかく、僕たち民衆は下手なことを言うべきではない。様々な人の意見を吸収するのはいいとしても、それをちゃんと噛み砕いて、自分の中で正義とするかどうかには充分悩むべきなんじゃないのか。

だから、ここから半年、一年経ち、すっかり虚構新聞批判が収まった時に、それでもちゃんと自分の言葉で虚構新聞を嫌っている理由が言えていれば、それは僕自身がちゃんと僕として納得できた、(僕による)正当なdisなんだろうと思うのだ。

 

*1:特にkyoumoe さんの意見はしっくりきた。

*2:自分も民衆の一人のくせに。

*3:特にネットだと謝っても許してくれない人がたくさんいるし。

*4:自分の考えには自分が責任をもつべきだから。