なにもしらない

アニメ、音楽、本、映画、ゲーム、インターネット

考える≒書く

導入

この前、とある声優の方がお亡くなりになった、というニュースが出る前に、色々な有名声優が、(おそらく)公式で発表が出る前に名前を出すことを禁止されているがゆえに、具体名を出さずに、ショックを受けているような呟きをしていた。それがとあるクソニュースサイトにまとめられていた(こういうデリケートなつぶやきをわざわざまとめるという、悪趣味なことをするようなニュースサイトはクソニュースサイトと言ってもいいはずだ)。当然クソみたいなコメントもされていて、それに対して、なぜわざわざこんな悪趣味な見方をするんだろう、と思ったのが、今この文章を書こうと思ったキッカケなのだけれど。

どういうコメントかというと、ざっくり言えば、声優さん達がこれらのツイートを目立つために書いている、というやつで、いやそんなことないだろうと考えたのだ。別にそんな積極的な理由で書いてしまったわけじゃなく、たまたまショックを受けて漏れ出てきてしまった=思わず書いてしまっただけだと思うし、そう考えるほうが明らかに自然だし。

本題

タイムラインっていう色んな人の集まる広場的なものがあって、その中に何かしらを書いていく、Twitter的なSNSが持つ一つの特徴は、考えたことをそのまま書いてしまう、ということだ。勿論、考えたことをそのまま書くべきではない、という「べき論」は分かるんだけど、べき論はあくまでべき論であって、理想であって、現実にそのルールに従い続ける、というのは難しい。思わず書いてしまうこともある。それはつまり、考えることと、表現することの境目が非常に曖昧になっている、ということでもある。

そういう曖昧な状況を、はじめからまるまる受け入れてしまっているSNSネイティブ*1の人々は、どうするのだろうと思うわけだ。具体的にどういうことかというと、「考える」と「書く」の境が曖昧になっている人々が、書いてはいけないこと、モラルに反するようなことを呟き、そんなこと書いちゃいけないと大勢の人に言われた時に、単に「ああ、こういうことは公にしてはいけないんだな」と思い、書くことを控えるだけではなく、考えること自体もやめてしまうのではないか、言い換えれば、ネットに書けるレベルのことしか考えなくなってしまうのではないか、もしそうならば、それって結構問題のあることなんじゃないか、と思うのだ。

例えば中二病という言葉があるが、これはインターネットによって完全に可視化されてしまい、結果、中二病であること=カッコ悪いことである、という概念が若年層にめちゃめちゃ浸透してしまった。すると、中二病真っ盛りの年代の人々が、中二病的なことを表現することをやめてしまう。さっきの話も考慮すると、表現どころか考えることすらやめてしまっているのではないか。*2もしくはそうでなくても、中二病が、本当にかかってみるのではなく、わざとかかってみる、ポーズとしての病気になってしまい、どちらにしろ社会的に間違ったものとして扱われてしまう。

そうやって皆が、恥ずかしくない、間違っていない思考のみを身に付けたとして、それは楽しいのだろうか? 子供たちが皆、大人的な、社会的に正しい思考を身につけたとして、それは果たして良いことなのだろうか? という気持ちがある。芦田愛菜やはるかぜちゃんの存在が良いか悪いか、というのは人それぞれ違うだろうが、少なくとも僕は、彼女らが存在していることは別に構わないと思う。ただ、彼女らのような人たちがたくさん出てきてしまうことはあんまり良くないことだと思うのだ。

「良くない」とは、感情的に言うならば、子供らしい子供が減るのは嫌だなという気持ちだし、もっとそれっぽく言うならば、社会的思考を身に付けるというのはつまりお利口さんになることであり、お利口さんが増えるというのは、正しくなれない人をどんどん排除してしまうことでもある。この世からそういう「いい加減」がなくなるのは怖い。「いい加減」なことを考えない窮屈な人間が出てきてしまうのも怖い。

論が飛躍しすぎた感もあるが、これが僕の限界なのでしゃーない。

似たようなやつ

*1:具体的には10代?

*2:書きたいこと(考えたこと)を書くためにSNSを脱出して、LINEに逃げてるんじゃないか、とも考えたけれど、LINEってチャットだしTwitterとは違うよな、チャットで発する言葉ってのは会話のための言葉であって、なんとなく書いてしまうような言葉ではないなあ、じゃあやっぱ違うな、と思い直した。