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とりあえず信じてみるしかない

映画『羊の木』を見た。

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映画『羊の木』 予告編

六人の元殺人犯が仮釈放され牢屋から現実世界に帰ってきたとき、一体何が起こるのか。という映画。

 

僕は昔、世の中には死んだほうがいい人はいるのだろうか、ということについて考えたことがある。具体的には人を殺したことのある人間を助けたいと思うか、と聞かれたら大抵の人は助けたくないし関わりたくないと答えるだろう。なぜなら過去に殺人歴のある人間なんて、どんなひどいことを自分にしでかすか、あるいは自分の周囲の人間にしでかすか、を考えるとどうしても受け入れがたく思ってしまうからだ。彼らを助けることよりも自分たちが助かることの方が重要なのだ。

しかし殺人犯を社会が受け入れる必要はあるかと言われたら、客観的に考えればある。受け入れないと彼らはどこにも働く場所がない、働く場所がないとお金が手に入らない、お金が手に入らないと再び人を殺すか、あるいは強盗か何か、犯罪をするしかない。お金が入れば、刑務所に入れば生活ができる。そして刑務所を出ると同じことをする。生活できないからだ。結果、再犯率は上がり被害者は増える。負のループである。故に社会全体としては彼らを積極的に受け入れる必要がある。

だから個人としては拒否反応が出てしまうとしても、上記の理由(再犯率の上昇、被害者の増加)により社会が彼らの更生に関わることに反対かと言われたら反対はしないだろう。しかしあなたが助けないと言ったとして、では誰が助けるのか。大抵の人は助けたくない、じゃあ誰が助けるのか。社会が助けてくれるのには賛成だ、じゃあその社会は誰なのか。社会は自分ではないとみんなが思っているなら、誰も助けないんじゃないのか、と僕は考えた。

 

この映画は、もし社会(あなたでありわたしでもある)が元犯罪者の更生に積極的に参加させられたとして、その結果何が起こるかということの一種のシミュレーションになっている。彼らが良い人間なのか悪い人間なのか僕たちには全く判断ができない。一見良さそうな人間に見えて実際に良い人間なのか、一見良さそうな人間に見えてそうではなかったと思いきや良いところもある人間なのか、一見悪そうで実際に悪い人間なのか、それをどうやって知ることができるのか。手っ取り早い手段が一つある。コミュニケーションだ。だからこそ事情を知ってる主人公も、何にも知らない町の人たちも、六人全員とちゃんとコミュニケーションを取ろうとする。その結果、ある場面ではうまくゆき、ある場面では失敗する。

 

この映画を見ながら本当に思うのは、とにかく信じてみるしかないということだ。元殺人犯側の立場でも、町の人側の立場でも。この映画において、彼らは自分の過ちをきちんと相手に懺悔することによって、そしてそれを相手が許すことによって、居場所を獲得し安全な生活を手に入れる。彼らは相手を信じ、自分のことをさらけ出し、「助けてくれる誰か」を見つけることで社会に居場所を得ることができる。それがどうしても言いたくない秘密であったとしても。そして私たちは、さらけ出してくれた秘密を受け入れることで、彼らに居場所を与えることができる。それがたとえ元人殺しという過去であったとしても。

逆に、たとえ濃い関係性を作ろうとも、自分の秘密を告白せずに人間関係を続けようとすると、それはどこかで破綻する。じっさい作中において、主人公は六人のうちのとある一人と深く関わった末、大変なトラブルに巻き込まれる。彼と関わりを持たず見て見ぬ振りで済ませておけば、主人公がひどい目にあうことはなかったかもしれないが、彼がどんな人間なのかブラックボックスの状態で彼を助けるかどうかと言われたら、それは助ける必要があると考える方がよい。その方が良いはずだ。彼がどういう人間なのかどうかは彼と関わらない限りわからない。わからないなら悪なのか善なのか普通なのかグレーなのかわからない。つまり受け入れる受け入れないの判断ができない。ならば関わるしかない。

コストを払うのが面倒くさいので全部まとめて拒否します、なんてことはもう許されていない。「ある集団の中に危害を加える人間がいそう」なことはその集団を拒否する理由にはならないのだ。現代社会でそういう楽をすることはできない。白人より黒人の方が犯罪率が高いらしい。女性より男性の方が犯罪率が高いらしい。では黒人と男性は殺すべきか? 言うまでもない。ISISがイスラム教徒だからといってイスラム教徒全員を殺すことは許されていないし、北朝鮮拉致問題があるから、北朝鮮が日本を敵国認定しているから、ミサイルを海上に撃ってきてるからといって日本に住む北朝鮮国籍の人間をスパイの疑いで全員殺すことはできない。そしてそれは正しい。

ならば同様に元殺人犯の彼らも社会から拒否されず、社会に帰ってゆくのだし、帰ってゆくなら生活ができるような手助けがなくてはならない。六人の中の誰が善良で誰が邪悪なのかどうなのか、第一印象で取捨選択をしろと言うのは無茶だ。この世界にはまだシビュラシステムが存在していないのだから(シビュラシステムが正しいシステムかどうかについては置いておく)。

 

僕はあなたのことを知らないけど、あなたと仲間になろうと思ったら多少腹をくくってもあなたのことを信じるしかないのだ。あなたが実は裏切り者だったとしても、それを最初から判断できる術はないし、印象で判断すること自体が差別に加担することになるかもしれないし、だからとりあえずでも信用するしかない。あなたと関わらない限り、あなたが僕に危害を加える人間なのかどうか、僕のことをわかってくれる人なのか、判断することができない。あなたは僕と関係のない人間なので知ったこっちゃない、と切り捨ててしまうことは、あなたがあなたの人生を悪化させる、あるいは自分の人生を悪化させる、引いてはこの社会を悪化させる手助けになってしまうかもしれない。