なにもしらない

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「お前はひとりぼっちでいろ」

コミュニケーション能力の低い人間は世の中に必要ないと世間は言っているような気がするし、「お前だって人格に問題のある人間に話しかけられたら嫌だろう?」と世間様から問いかけられたら「その通りですね」と返してしまうだろうし、実際そんなめんどくさい人間は排除した方が生活は楽になるだろうなとも思うし、いや、少し言い方を変えよう、いわゆる「距離感がバグってる人間」と、お前は、世の中は、コミュニケーションを取りたいと思っているのか? そんな人間いるわけない、いるわけがないよな、たとえば「あなた」はどうだ、「あなた」は避けるよな、そんな得体の知れない人間とは関わりたくない、それは何にも間違っていない、正しい、なんて正しいんだろうか、では「わたし」を避けない人間はどこにいる? 「わたし」と向き合ってくれる人間はどこにいる? そんな人間、どこにもいないのではないか?

 

このことについて考えだすと、僕は世間から「お前はひとりぼっちでいろ」と言われているような気持ちになる、僕は幽霊のような、透明な人間になりたいと思う、透明になれば僕は誰とも対面する必要がないし、飯を食う必要がないからスーパーに行って、牛丼屋に行って、ラーメン屋に行ってコミュニケーションを取らずに済むし、服を着る必要がないからイオンに行って、パルコに行って、ららぽーとに行ってコミュニケーションを取らずに済む、除け者にされることもない。存在しなければ排除されることもない。

 

SNSでアカウントをブロックするように、リアルでも同じことをしたい、排除したいとほんとうはみんな思っているんじゃないか。逆にリアルではできないからインターネット上でやってるのではないか、ネットとリアルが繋がってるとかなんとかのたまいつつ、インターネット上で個人主義アパルトヘイト(どっかの偉い人間は「フィルターバブル」とかいう言葉を作ってうまいこと誤魔化している)やってることに対してみんなが何にも言わないのは何でだろうと時々考えるが、僕もやってるから人のことは言えない。異物は排除したい、僕は異物か。

 

youtu.be

中華イヤホンにハマり終えた

中華イヤホンにハマっていて、いくつか買ったりしている。

 

他の人はどうだか知らないが、僕の場合何かにハマると一日中それについての情報を摂取し続けないと生きていけなくなる。端的に言うと耳年増になる。だから現在持っている中華イヤホンの数よりも知識として持っている中華イヤホンの情報の方が圧倒的に多い。インターネットを通じてあらゆるレビューを見まくる。ブログを読み、YouTubeを見、amazonレビューを読み、5chの中華イヤホンスレを読み、ツイッターでイヤホンの型番を検索する。暇な時さえあればやる。そうしていないと生きていけなくなる。水のような感覚。

 

中華イヤホンとは何か。ものすごくざっくり語ると、見た目は日本や欧州の高級イヤホンのガワだけパクり、しかしビルドクオリティはイマイチ、中身はとにかく数こそ力だと言わんばかりにドライバを詰め込み、チューニングは適当、しかしそれが時折奇跡のバランスを生んだり生まなかったりする、そういうロマン溢れるジャンルだ。中国のメーカーが出してるので中華イヤホンと呼ばれている。値段が馬鹿みたいに安いので、品質も安定しない、しかし安いが故に当たり外れがあってもついつい手を出してしまう、通称イヤホンガチャがあることも魅力を増している。

 

というのが去年一昨年までの話で、2018年現在はかなりクオリティが上がってるらしい。信じられない頻度で新作イヤホンを連発しているため、技術もそれに並行して向上しているらしい。徐々にガワはパクりじゃなくなり(相変わらずパクってるやつもあるが)、ビルドクオリティはそれなりになり、音も良くなり、イヤホンガチャに失敗して外れ筐体を引くことも少なくなっている。なので最近ハマったばかりの僕は、はちゃめちゃな音のイヤホンに当たったことがない。所持している中華イヤホンのうち、ハズレは一つもない。ないっていうほど数持ってないけど。

 

というかもうある程度自分の満足いく音のイヤホンを見つけてしまったので、しばらくは買わなくて良いやと思ってるくらいだ。最近は新作中華イヤホンの値段が徐々に上がっていて、だからもっと上を目指そうとすればできるかもしれないが、元々できるだけ安価に済ませられるのがメリットだったはずなので、これ以上はいいかなって感じ。お金もないし。相変わらず馬鹿みたいにレビューを見たり読んだりする奇行は続いているが、それもそろそろ潮時なのかもしれない。1ヶ月くらいしか経ってないが。ハマってから終わるまでが早すぎるのでは。

 

 

あとはケーブルやイヤーピースをどうするかだけだ。

『すべての見えない光』を読みきれない

とある感情から逃げるために本を声に出して読んでみたりなんなりした結果、感情が割と落ち着いてきた。とある感情とは何か、なぜ感情から逃げたいのかは気にしなくていい。それとは別に寒い時期特有の鬱感情もあるが、それは別に毎年あるやつなので置いておく。


ところで声に出して読んでる本というのが『すべての見えない光』というやつで、本屋大賞とかも取ったらしい(正確には2017年の本屋大賞二位)。まあみんな本屋大賞って日本の小説でしか耳にしないからあんまりピンとこないだろうけど、翻訳小説である。同じく本屋大賞を取った翻訳物で『HHhH』とかも昔読もうとしたけど挫折している。二回。おそらくこれも挫折する。理由は単純。なんたって500ページ以上ある。しかも文字が小さい。


しかも更に問題があるのが、冒頭に言ったように、僕はこの本を「声に出して読んでいる」のだ。これはちょっと想像すればわかることだが、本は朗読するより黙読するほうが圧倒的に早く読める。にもかかわらず喋って読んでいる。僕は機械音声やPodcastじゃないので喋る速度を二倍にできたりしないため、全然進まない。こんだけ読んだのにまだ10ページか、って感じ。


その上さらに問題があるのが、これは問題というかいいことでもあるかもしれないが、文章がむちゃくちゃうまい。

例えば、主人公ヴェルナーが壊れたラジオを修理し、見事復活させ、妹ユッタと喜びを分かち合うシーン。

イヤホンをユッタに渡そうとしたその時、コイルのまんなか、やや下で、雑音のない澄んだ音、弓がバイオリンの弦を動く鮮やかな音が聞こえてくる。彼はつまみを少しも動かすまいとする。ふたつ目のバイオリンが加わる。ユッタがにじり寄る。目を大きく見開いて、兄を見つめている。

 (中略)

 彼はまばたきする。涙をどうにかこらえる。休憩室はいつもと変わらない。二台の幼児用ベッドが、ふたつの十字架の下にあり、ぽかりと開いたストーブの口にはほこりが漂っていき、幅木からは十回も重ね塗りしたペンキがはがれかけている。流しの上には、エレナ先生が刺繍で作ったアルザスの村の絵がある。だが今、そこには音楽がある。まるで、ヴェルナーの頭のなかで、極小のオーケストラが動きはじめたかのように。

 (アンソニー・ドーア『すべての見えない光』、藤井光 訳、新潮クレストブックス、2016年、p.35)

 

むちゃくちゃうまい。むちゃくちゃうまいとどうなるかというと、読みながらガンガン感情移入する。するとお前はミュージカルに出演してるのかってくらい、ってのは言い過ぎだが、感情的になり、小説にのめり込んでいくから、読むスピードは自然と遅くなる。ついでにいちいち頭の中でスタンディングオベーションが起こる。いや、こんなすごい文章読んだらそうなるでしょ普通。そして文章のうまさに溜息をつく。


「そんなことやってるならさっさと続きを読め」

「いい小説なんだからゆったり読みたいでしょ」


すると500ページの壁は別の意味でどんどん分厚くなる。いつになったらこの壁を乗り越えられるのか。