なにもしらない

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弱者の存在を肯定する

多少の矛盾は許して下さい。

 

自分を「ダメ人間」だということをわざわざ言語化する人は、本当に自分がダメだとはわかっていない - 陸マンボウのブログ

自分がダメ人間だとつぶやく愛すべき人たちへ、その苦しみから逃れるためには自分の価値を完全に否定するしかない - 陸マンボウのブログ

 

これらを元ネタにして色々書きました。

 

  • 承認欲求について

承認欲求というのは基本的に誰もが持っている欲求だと思う。僕がブログを書くのだって、人に褒められたいからだ。アクセス数を増やしたいからだ。

けれども、それが全てというわけじゃない。自分の考えをまとめたいという気持ちも勿論あるし、もっと納得できる文章を書けるようになりたいという意識もある。単に頭の中に浮かんだ考えを吐き出す場所がほしいということもある。そういう様々なものが混ざり合って、「ブログを書く」という一つのとこに着地してるわけだ。

 

  • 弱さを肯定することについて

僕は他人にどう思われるかばっか考えて生きてきて、その結果自我というものを置いてけぼりにしてしまった人間だ。だから他人から見た自分ばかりを気にするのではなくて、自分から見た自分をまず気にしなければいけない。自分がまずあって、次に他人があるのだ。それを忘れてはいけない。勿論、これは他人との関わりをおざなりにしていいという意味ではない。

僕は弱い自分を改善するべきだとは思うけど、現在弱い自分が存在していることは肯定するべきだと思う。そして将来弱点が改善されたとして、それでもなお社会一般に比べて弱い自分であったとしても、それを肯定するべきだと思う。肯定するというのは褒めるということではなくて、そういう自分が存在していても「構わない」と思うことである。

ついでに言うと、弱い自分を肯定することは、弱い他人を肯定することにもつながると思っている。

 

  • なぜ自分をダメ人間だと言うのか

なぜ自分をダメ人間だとわざわざ言語化するのか。屑だと思う自分を自分では肯定できないために、他者にそれを認めてもらうツールとしてネットを使ってるのかもしれない。要は「ダメ人間でも生きていてよいんだ」という承認がほしいってことだ。もしくは自分の中に湧いてきた「死にたい」で頭が一杯になった時に、なんとかしてそれらを外に出す方法として付けた蛇口がネットなのかもしれない。それを別に僕は酷いことだとは思わない。社会とやらは醜いと言ってるのかもしれないけどね。

例えば、夏目漱石の小説「こころ」においてなぜKが死んでしまったのか。その原因の一つが「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」というセリフだ。このセリフ、自分が向上心を持ち続けられている時はいいのだけど、そうできなくなった途端、人に向けていたはずの「馬鹿だ」が自分に刃を向くようになる。そうなると、向上心は更になくなり、なくなると更に「馬鹿だ」が刺さり、で最終的に死ぬしかなくなる、と*1。そういう人のことを、僕は「自分が馬鹿だということを受け入れられなくて死んだ醜い人」と切り捨ててしまいたくない。

もちろん馬鹿でも構わないという承認は他人に与えられるもんじゃなく、自分が与えるもんだという正論は分かる。わかるけれど、できない人間を攻撃するのは、そうできていなかった過去の自分、今もそうできていない部分のある自分を否定してるような気がしてしまうのだ。

何でもいい、昔できなかったが、今できるようになった何か(Aとする)があったとする。だからといってそれ(A)ができない人を攻撃するのは、できなかった自分の過去を否定しているようで非常に嫌なのだ。もっと言えば、それをできなかった過去の自分も、できないことを馬鹿にされるのは嫌だったに違いないと思うのだ。だから、例えば今自分が自転車に乗れるからって、自転車に乗れない人を馬鹿にするようなことはしたくないし、自分が中二病を卒業したからといって、今だ中二病の人間を馬鹿にするのはおかしいと思う。そうやって一段上に登った*2からといって、一段下の人間を馬鹿にするのって、なんというか老害的というか、物凄く卑怯なことだと思う。

 

*1:実際、そのセリフ「だけ」のせいでKが死んだわけじゃないけど。

*2:一段上に登るってのは言ってみれば大人になるみたいなことだ。ただし、大人になったからといって子供より素晴らしい人間になるわけじゃない。