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千石撫子という「萌え」キャラの変化についての個人的考察

物語セカンドシーズンというのは、今まで物語シリーズでむやみに記号化されてきたキャラがいかに自身の中にブレを持っているか、というのを描いているシリーズだと思う。

そのせいだかなんだか知らないが、ファーストシーズンでの良い(プラスイメージの)キャラは、大抵セカンドシーズンで悪いキャラ付けがされ、逆に悪いキャラは良いキャラ付けをされる。故に羽川は綺麗なだけじゃなく汚いところもあり、撫子は可愛いだけじゃなく恐ろしいところもあり、貝木は悪いだけじゃなく良いところもあることがわかってくる。

その中でも特に千石撫子はぶっ飛んでると思う。

個人的に、セカンドシーズンにおける千石撫子の変化は、二次元的美少女キャラを三次元的に解釈した時に、キャラ自身にどんな歪みが発生してしまうのかというものを描いたのではないかと妄想している。

千石撫子を表すかわいいは、基本的に表に出てくる喋り方や動き方でしかない。例えば今回の二話で、神様となった千石撫子が貝木にめちゃめちゃぶっ飛んだ言動をするのだけれど、ニコニコ動画でこれを可愛いと評価している人がいる。あれは喋り方や動き方が可愛いだけで、それ以外はほぼ可愛くない。髪の毛が真っ白な蛇になっているのは怖いし、「ぶっ殺す」とか言ってるのも怖い。何を考えているのかわからない。ただ顔は可愛い。この噛み合ってない感じ、J-POPで言えば悲しいオケに明るい歌詞が乗っかってくる感じが見ていてどうにも居心地が悪い。貝木の言葉で言えば「気持ち悪い」。しかし一部のオタクにとっては「可愛い」らしい。どうやらオタクには、一部分の可愛さによって、他の様々な可愛くない部分を覆い隠してしまうタイプの人がいるらしい。例えばヤンデレとか。最近の暴力女めいたツンデレとか。

とにかく彼女は表面的に、記号的に見れば非常にかわいらしい、おとなしい、萌えの塊みたいな女の子であるがゆえに、様々な人物からかわいいかわいいと持ち上げられ、そのせいか彼女の本心については全く触れてもらえない。物語シリーズでは、暦や学校の先生だけではなく、千石撫子の両親すら、彼女がどういう裏を持った人物なのかを知りもしないし、知る気もないし、裏を持っていることすら感じていない。

この両親の撫子に対する接し方は、そのまま視聴者である我々の、萌えキャラに対する態度を示しているのではなかろうか。実際、撫子の両親が可愛くないところを見たくないように、オタクも可愛くないところを見ようとしないし、そもそも可愛くないところなんてないとすら無意識に思っている。二次元なんだから思い通りのキャラであると信じている。当たり前っちゃ当たり前なのだが。

故にかわいいことが彼女の良いところであり、それだけを彼女は外に発信し続けるべきで、奥深くに潜んでいるドロドロしたものは外に出してはいけない、我慢しなくてはいけないと、撫子は恐らく思っている。

結果的にそれが彼女を悪魔のような神にしてしまう。

これが先ほどの妄想で言えば、二次元キャラがもし三次元的思考に放り込まれたら、言い換えると平面的キャラクターが立体的(複雑な)思考をするようになった時、どういう精神状態になるのか、という思考実験の一つの結果なんじゃないかと思うのだ。萌えだけではない、現実の人間のような複雑な思考を身につけた萌えキャラは、単純に解釈され続けることに耐え切れなくなり、破滅してしまうというわけだ。

だから僕は千石撫子を見ていると、普段なんとなしに見てテキトーに可愛いなあと思っている萌えキャラも、心の奥底ではこういうブラックなことを考えているんじゃないかという、つまりは萌えキャラを萌え(平面)で固定化させない、二次元と三次元をごっちゃにしたような不思議な感覚に陥る。

 

更に言えば、こうやって撫子が「かわいい」と言われることに苦しんでいたことが嫌というほど暴かれ、完全にネジが飛んでしまった、恐ろしい容姿に変化した彼女を見た後でさえ、まだかわいいかわいいなんてことが言えるオタクが居るのだから、いやあオタクって恐ろしい生き物だなあ、と。もちろん彼女がフィクションの存在だということはわかって言っているのに違いないのだけれど、それでも萌えに対しての貪欲さみたいなものを感じる。