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町田康めっちゃおもろいじゃん

今まで文章を書くときに村上龍を読んでいれば村上龍風、太宰治を読んでいれば太宰治風の文体になっていて、とりわけちょっと前までは太宰治にかなり汚染されていたのが、最近では太宰風にはならなくなっている。抵抗力が上がったのか知らん。

ともかくとして、抵抗力の上がった僕が今読んでいる『パンク侍、切られて候』(町田康)がかなり面白いというかかなり印象的な文体で困っている。「今更町田康かよ、俺はもっと前から知ってたぜ」と中二病的なお叱りを受けそうだが、今僕の中でフィーバーしてるんだから今更もなにもないのだ。僕の世界の中心は僕なのだ。センターオブユニバース。安らぎのパーキングエリアがほしい。

話を戻すと、太宰のあの何とも言えない文体に出会った時もかなりの衝撃を受けたし、勿論村上龍もそうなのだけれど、この町田康はそれ以上の衝撃である。若者的言葉遣いを巧みに用いて、あと何を言ってんのかわかんないというか、つらつらと脳内の迷いをそのまま吐き出したような斬新な文章なのだ。ニコニコ動画で言えば「無駄に洗練された無駄の無い無駄な動き」ってタグが付きそうだ。ただこの場合動いているのは人ではなく言葉である。くねくねと曲がりくねった道を進みながら結論に向かっていく言葉の様は確かに無駄とも言えるのだけれど、その回り道具合がまさに町田康の魅力でもあるのでなんとも言えない。急がば回れとも言うしね。上手いこと言えてない。

しかも回り道をしている割に、結構読みやすいという不思議さもある。アマゾンレビューを見ているとどうやらこれを読みにくいというか面倒くさいというかさっさと本題進めろよと思う人もいるらしいが、むしろかなり読んでいて楽しいのだ。西尾維新の言葉遊びとは違う面白さがある。というか個人的に西尾維新より面白い。こんなことを書いちゃうと西尾維新ファンと町田康ファンにそれぞれ「西尾維新を馬鹿にするな」「町田康を馬鹿にするな」とハサミ打ちにされそうだ。でも二人の女の子(ファン)に言い寄られる展開って体験したことがないのでそれもいいのかもしれない。ファンが女の子であるという前提の話である。

具体的な特徴を書くと、一文を短く切らない(一文に五行も使ってたりする)、原稿用紙三枚分も登場人物がひとりごとを喋る、あげく「原稿用紙三枚分も喋っちゃったよ」とか登場人物自ら言い出す。特にぶっ飛んでいるのが、登場人物が恐ろしく口語的であるということ。「でしょ?」とか「ないってのか?」とか「じゃねえよ」とか平気で今の言葉を使う。小説の常識なんて知ったこっちゃないと言わんばかりのめちゃくちゃな小説である。だが面白い。だから面白い。

その上この現代的な口語を、江戸時代だかなんだか分からないがとにかくサムライの時代に容赦なくぶち込むことでシュールさが生まれている。サムライが現代語喋っているというだけでもう面白いもの。その上更にストーリーもめっちゃ面白いらしいのだ。というか評論家が軒並み絶賛しているみたいだから、これが面白く無いと困る。絶賛するくらいなのだから少なくともうんこではないだろう。

 

ここからは考察というか本編に関係ない話である。

僕がこれを読んでいて考えたのは、今の世の中にある一般小説も充分「文語化」しているのだなあということである。ただ今の一般小説をあんまり読んでいないのであれだが、妄想込みで話すと、今の小説って「でしょ?」とか書かないし「ないってのか?」なんて書かないし「じゃねぇよ」とも書かないだろう。でも今の人って普通にそういうこと言うじゃん。町田康は現代の二葉亭四迷である、なんてそんな偉そうなことは言えないが、僕の読書体験の中でも圧倒的に斬新であるし新しいし、ともかくこれが「いま」の文学だと感じたのは事実である。

楽しく読みたいと思います。