なにもしらない

アニメ、音楽、本、映画、ゲーム、インターネット

人間の臭いがしないのはあんまり好きじゃない

今、北村薫の「ターン」、ドストエフスキーの「悪霊」、西村賢太の「けがれなき酒のへど」、三つの本を平行して読み進めている。

で、その中でも北村薫について。

北村薫って初めて僕読むんだけども、確かに読みやすいっちゃ読みやすいんだけど、あんまり好きな文体ではないなあと。こういう気取った文体でこられるとちょっと引いてしまう。こういう文体よりは、西村賢太みたいなカッコつけた文体のほうが好きだ。

気取ったとカッコつけたは対して変わらんじゃないかと言われそうなので説明すると、「気取る」って、なんだかいい格好しようとする自分を肯定している感じがするのだ。

比べてカッコつけるのって、あくまでそれは格好「つけて」いるだけで、いいカッコをしようとはしてるんだけどでもなりきれなくて恥ずかしいというか、ひねくれているというか、真っ直ぐになりきれない感じがして、とても好きなのだ。

村上春樹もそうだけれど、ああいう気取った文体って、真っ直ぐ丁寧に恥ずかしいことをやってるので見ていてこっちも恥ずかしくなる部分もあるというか、とにかく読んでいてムズムズする部分があるのだ。中二病を受け入れられない高二病患者みたいなもんかもしれないけれど。

これは地の文でもそうだけど、特に会話のシーンで強く思うところである。普通の世界じゃ絶対そんな喋り方しねーだろと。いやそんなん、小説なんだから現実世界と同じ喋り方するわけ無いだろアホか、と言われれば、そのとおりでございます、と返すしかないのだけど、でも好きじゃないものは好きじゃないのだからしょうがない。

人間の臭いを感じないのも、一つの原因なのかもしれない。

ドストエフスキー西村賢太も、彼らの本からは嫌というほど人間臭がするんだけれども、この「ターン」て小説は全然人の臭いがしない。キャラクターがどうやら辛い目にあっているようだ、焦っているようだ、というのは確かに分かるんだけども、人の臭いがしないがゆえに、心が揺れ動かされない。彼らが小説の中で生きているという実感が得られないので、感情移入できない。

結果どうなるかというと、確かにストーリーは面白いし、色々と考える余地はあるかもしれないが、感動はできない、と、そういうことになるわけだ。

「ターン」のような小説って読んでも僕の主観が感動するんじゃなくて、客観が感動するみたいな、いや違うか、形而上学的に感動するというか、うーん・・・もうなんと言っていいかはわからないが、少なくとも主観が感動していないことは事実である。けれども僕が小説を読むことによって得たいのは、まさにその主観による感動なのだ。

だからどうしても、人間の心を描くことをおざなりにしてしまう小説を、僕は好きになれない。