なにもしらない

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文章(文体)を楽しむ

小説というのは最終的にはその人の文章(文体)が好きなのか嫌いなのかというのがすごく大事になってくるジャンルだと思う。山ほど小説を読んでいると、ストーリーがいかにつまらなかったとしても、文章さえ面白ければ好きになれるところまで到達してしまうのでは。みたいなことを書くと、意識高い(笑)とか言ってバカにされたりもしそうなんだけれど、なんだろう、もうストーリーなんかどうでも良くなる瞬間って絶対あると思うんだよね。

例えば僕は太宰治って小説家が大好きなのだけれど、そん中にまあ(ストーリーとしては)しょうもない短編があって、確かなんたら歌留多とか言って、太宰治があいうえお作文みたいにひたすらだらだらと文章を書いていくっていう、ストーリーなんてあってないような、しょうもない短編なんだけれど、でもなんか好きなんだよね。それはストーリーというよりかは、その人の文章の綴り方とか、その人がどういう人なのかっていう、そういうパーソナルな部分が見え隠れしているからで、それを「味わうこと」自体に価値があって、それさえ味わうことができるならば、もう充分だっていう気分になっているからなのだ。ストーリーとしては、太宰治は中期が一番面白いというのはよくいわれているけど、でも前期は前期、後期は後期で、面白がり方というのはあって、それを見つけることができると、読者側としてはとても楽しめる幅が広がって良いと思う。

ところでその、文章の綴り方、とか、パーソナルな部分、とか、が見え隠れしているコンテンツが、今インターネット上に山のように存在していて、それはブログってやつなんだけれど、例えばこのはてなブログで、読者になるボタンをわざわざ押す理由っていうのは、その人の言っている内容が面白いってのももちろんあると思うんだけど、もっと根底にあるのは、その人の文章が面白いっていうところなんじゃないかと思うのだ。僕がズイショさんのブログを購読しているのは、言っている内容が好きというのもひとつの理由ではあるんだけども、もっと根っこにあるのは、この人の文章の感じが好きだからというのが大きい。そもそもこの人のブログって本題以外の話がやたら多いのが特徴であり、それが物凄く好き嫌いに影響してくる。色んな所にぶっつかりぶっつかりしながら前に進んでいく感じ、これは人によってはうるせえ早く本題に移れよと思うところかもしれないけれど、その人の文章の綴り方とか、パーソナルな感じを楽しみに読んでいる人は、そういう寄り道に対して全然嫌悪感を抱かないだろうし、むしろそれ自体が楽しみになっているんだと思うのだ。

あ、でも今パーソナルというふうに書いたけれど、わざわざ寄り道をしないで整然とした文章を書くのも、それはそれでパーソナルというか、その人の個性だとも言えるし、それはそれで違う面白がり方があるのかもしれない。

ただ、好き嫌いというのはどうしようもないので、ズイショさんのブログの文章がどうしても好きになれないのなら、それはしょうがないと思うし、例えば僕はどうしても村上春樹の文章が好きになれないのだけど、それはどうしてかというと、舐められている感じがするからなのだ。春樹の文章って異様なほどに親切で、根絶丁寧に綴ってくれるから、本当にスルスルっと読めるんだけど、それがまあ僕の中で気に食わなくて、こんなに接続詞書かなくても分かるわボケとか思ってしまって、とにかく突っ込みどころを探しながら読んでしまうので、ああこの人の文章は僕には向いてないんだなと思い、諦めてしまった。ただし、前ブログ記事で書いたのだけど、『雨天炎天』『辺境・近境』という紀行エッセイ? は小説のようないつものあの丁寧な(悪い言い方をすれば「ねちっこい」)文章じゃなく、結構あっさりした文体だったので、非常に楽しめた。あの文体で小説も書いてくれるなら、村上春樹のことすごく好きになれると思うんだけど。

話が脱線したので戻すが、とにかく、太宰治の文章が好きだったり、村上春樹の文章が嫌いだったり、文章自体の好き嫌いはもちろんあるにしても、「ストーリー以外の違う面白がり方を見つける」というのは、読み物をより楽しく読むためにはあったほうが得だよね、とは思う。

芝生の復讐 (新潮文庫)

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