なにもしらない

アニメ、音楽、本、映画、ゲーム、インターネット

わからない人を書かない、わかってもらえない人に書かない【追記あり】

皆よく知らない人について数少ない情報を元に好き勝手書くよね。今なら乙武洋匡。ちょっと前は清原。もっと前はベッキー。でも、大抵の場合、それって自分の妄想が作り出した乙武洋匡清原和博であって、その人自身を語れてるわけではない。まあ、でも彼らならまだいいのかもしれない。芸能人だから言われてもしょうがないってところはあるかもしれない。だから言っていいってわけでもないけど。

僕としては、ある人に対して限られた情報からアレコレ妄想するのは失礼だっていう気持ちがあるから、あんまり大したこと書けないのだ。この前のゲーム機バキバキの時も、約束を守らなかったからゲーム機を壊していいなんて間違っている、みたいなことを書いた。事実として書ける、というか、確実なものとして書けることってこれくらいしかなかったのだ。いや、他にも、昔親に虐待されていたらしいとか、音楽家って基本的にそういう傾向がとか、そういうのがネットニュースやらなんやらで流れていたけども、確実かと言われればそうではない。昔親に虐待されていた人間は子供を虐待するのか、と言われたら、そういう人もいるしそうじゃない人もいるでしょうと思うわけだ。ならば彼女は親に虐待されたからゲーム機を壊したのか、それはわからない。音楽家にそういう過激な傾向があるとして、彼女が音楽家的な気質をどれだけ受け継いでいるのかなんてわからない。ならば音楽家的な気質を受け継いだからゲーム機を壊したのか、そうではないのかはわからない。わからないことは書けない。

アドバイス罪というのがある。最近はクソバイスって言うんだっけか。普通にツイッターを使ってたら、別にツイッターじゃなくてもいいか、はてなブログを使って、はてな匿名ダイアリーを使って、辛いこととか悩んでることとか書きたくなる。すると解決法を教えてくれたりする。でもここでまず問題になるのが、解決するためにインターネットに悩みや苦しみを書いたのかどうかってことだ。解決なんてどうでもよく、ただ吐き出したくて書いただけならば、アドバイスされること自体が不快だ。じゃあ逆に、解決するために書いたとしよう。残念ながらインターネットの人たちは僕(あなた)のことをそんなにわかってない。考えるまでもない。アタリマエのことだ。そんな何でもかんでもインターネットに書くかと言われたら書かない。その中で悩みを解決しようとするとどうなるか。インターネットに書かれた限られた情報から妄想を広げて個人を作り上げ、そいつに向かって書くことになる。当然「そいつ」はとある人間の脳内にしか住んでない個人である。実際の人とは違う。だから大抵の場合、的外れな、頓珍漢なアドバイスが出来上がり、でそれを受け取った個人は困惑することとなる。まあそうじゃないこともあるだろうけど、僕の考えとしては上記の通りである。そして上記の通りなので、僕はインターネットに絶対自分の悩みを書かないし、自分がどういう苦しい状況にいるかを書かない。よくわからない人たちによくわからないなりのアドバイスもしない。

僕を知らない人によくわからんアドバイスをもらって気分が悪くなるくらいなら、何も言わないほうがマシだ。あるいは、知らない人によくわからんアドバイスを与えて気分を悪くさせるくらいなら、何も言わないほうがマシだ。少なくともインターネットにおいては。

でも、わからない人を書かないし、わかってもらえない人に書かない、このスタンスが果たして良いことなのだろうか、とも思うことがあるので(それっていくらなんでも不自由すぎやしないかっていう)、別にこの意見を参考にしなくてもいいです。

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

似たようなことが書かれていた気がする。

【追記】
とか書いたそばから、少女監禁事件について好き勝手語る人がわんさか出てきてうげえってなってる。少女と男が具体的にどういう生活を送っていたのか、何一つはっきりした情報が出てきていない、穴だらけの状態であるにもかかわらず、勝手に行間を埋めて物語を作ってしまう人々があまりにも多くないか。仮説を立てるのは勝手だが、それをまるで事実であるかのように運用しちゃダメだろう。僕が思うだけだけど。