なにもしらない

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人間が刺されることについて

SNSの登場で変わったのが、あらゆる人々がコンテンツ化されるようになったってことだと思っている。一方的にテレビを見て芸能人を見て笑ってた人々が、あらゆる人から笑われる側になった、あるいはあらゆる人を笑う側になった。一方的に消費する側だったのが、お互いがお互いを消費しあう状況になった。いわば「万人の万人に対する消費状態」である。良いんだか悪いんだかは知らない。

だからTwitterで、Instagramで、hatenaで、もしくは現実世界のどこかで人気になるってことはつまり、誰かから(物理的に、あるいは精神的に)刺されるかもしれないってことでもある。

あなたが人気者になったとしよう。すると刺してくる人が現れる。あなたは「私に幻想を抱くのはやめてください」「私はキャラクターでも偶像でもなく実在の人物なんです」とでも言うのかもしれない。これでわかってくれる人はいる。しかしそうじゃない人もいる。アイドルの握手会にのこぎりを持って突撃してくるような人間には通じないだろう。シンガーソングライターをめった刺しにするような人間にも通じないだろう。世の中にはそういう人間が確実に存在する。この場合どうだ。人気になるリスクを考慮しないあなたが悪いのか? それとも刺したそいつが悪いのか? まあこれはいい。言うまでもなく刺したやつが悪い。いじめられている人間にも原因があるなんてめちゃくちゃな言い分が許されないのと同じだ。

重要なのはそこでどうするかってことだ。刺したやつが悪かろうがなんだろうが、実際あなたは痛い思いをすることになるわけで、それに対して何らかの対処はしなくちゃいけない。じゃあどうするか。刺されても刺されていないかのように振る舞うか(しかし痛みは残る)。刺してくる人間が現れる度にそいつを警察に突き出せばいいのか(しかし精神的疲労は免れない)。刺してくる人間が出てこないような何らかのシステムを作ればいいのか(しかしそれは当然、刺してこない人間に対しても制限をかけることになる)。刺されない程度の発言をする控えめアカウントとして生きるか(しかし、あなたには発言の自由がなくなる)。最悪その場から逃げるか(しかし、あなたはあなたの居場所を一つ失うことになる)。

どれが幸福なのか? それらに幸福はあるのか?



もういいや、言いたいことを言う。
人間がめった刺しにされた事件をアイドル論や何やらの遠い話として処理するのをやめろ。これは「人間が人気になると人間から刺される可能性がある」話であって、そこにアイドルだからとかシンガーソングライターだからとか「庶民ではない特別な肩書」みたいなものを使って逃げるな。