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自分を棚上げして映画『勝手にふるえてろ』についてクダを巻く、ネタバレ有

勝手にふるえてろは映画版しか見ていない。それを踏まえて聞いてほしい。

 

あの映画は基本的にヨシカ側からの視点しかないので、イチ、ニという人物が実際どういう性格で、どういう生活を送っていて等の具体的な情報が一切描かれない。イチは随分自由な、自由でありたいキャラクターらしい。それはわかる。しかしその自由が一体どのような自由なのかについては語られない。とうとうイチと直接向き合う段になっても、ヨシカはイチから言われた「君は誰」の一言でシャッターを下ろしてしまう。ニは明らかにコミュニケーションが下手くそだが一生懸命なやつ、くらいのことはわかるが、具体については語られない。彼がヨシカに近づくために飲み会? パーティを企画する時、LINEを交換しようと提案する時、デートに誘う時にどんな葛藤があったのかは一切わからず、ヨシカは眼前に迫るニの実際のみをもってドン引きしたり嫌な顔をしたりする。

 

なんというか、イチに対してもニに対してもヨシカは基本的に受け身であり被害者だ。そう、被害者っぽい。だからこそ、絶滅した動物の話題でイチと散々盛り上がった後に名前を知らないと言われてダメージを受け、付き合わない? と自分でニに言った後にキスされそうになって逃げ出す。土台を自分で作っといて壊してしまう。イチが好きならたとえ名前を知られてなかろうが、話が合うのだからそのまま関係を1から進めることもできるし、ニにドン引きしたなら拒否すればいい、付き合う気があるならキスをしろ(結果したわけだが)。

 

でもまあイチはまだいいか。ニだよニ。ここからは僕の想像だが、なんかニってちょっと成長したヨシカっぽいんだよね。下手くそなりに関係を進めようと努力したり、告白したり。色んな人に頼るし。ヨシカver.2.0的な。だからニの内面が描かれてないのが気になっちゃうのかもしれない。もしこの映画の主人公がヨシカじゃなくてニだったら、きっとヨシカ的な部分が描かれてくるんじゃないの、ニがカフェに行って喋ったことない店員と妄想で会話するシークエンスとか出てくるんじゃないの、まあ想像だからわかんないけど。

(追記:ここではこのように書いてしまったが、恐らくニの場合、妄想で会話をするというよりかは、実際に店員に話しかけてはみるものの、ヨシカに対する時のような、相手に微妙に不快感を与える失敗をしでかすのではないか。)

 

ただ多かれ少なかれ、こういう情報の非対称性みたいなものが恋愛というか人間関係なのかもしれないな。自分自身への掘り下げは過剰なほどなされているのに対し、相手について把握できる事象の範囲が狭すぎるために、自分と相手を比較した際、どうやっても相手が記号化されてしまう。じゃあ記号化をどうやって防ぐかっつってもさ、死ぬほど相手に聞きまくるくらいしかできることはない。それ以上は犯罪でしょ、というか聞きまくること自体相手に迷惑かもしれないし、もうどうしょもない。なんとか妄想で余白を埋めてくしかないよね。するとそれはそれで妄想は事実ではないので問題が起こるのでは。ああ地獄だ。