なにもしらない

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僕の知らない差別

YouTubeでレコメンドされてきてたまたま見た動画が、元女性の男性が生理用品を並べて女性の生理がどれだけつらいのか語る、というものだった。動画の内容自体は非常に勉強になって良かったのだが、気になったのはそこではなくて、コメント欄のほうだ。

大半の評価されているコメントは「元女性だからこそちゃんと教えられる」とか「元女性だから説得力がある」とか「元女性だからこそわたしたち女性のことをわかってくれる」とかそういうものだった。それに対し面白いコメントがあって「これは差別ではないか」。この動画を「元女性の男性が生理用品を紹介する」と解釈してしまうのは、世の中にいる元女性の男性に対する差別ではないか、というものである。

例えばこれが「男が生理用品を紹介する」だとどうだ。これに対しては不快を感じる、よく知らないくせに語るなと言われてしまうかもしれない。ならば「女性の生理について詳しい男が生理用品について解説する」のはどうだ。これも気持ち悪いと言われそうだ。その動画がたくさん再生されて高評価がたくさん付くイメージは全く浮かばない。

(もちろん、そもそも女性の生理について男性が語ることを気持ち悪いとか不快とかいって退けてしまうのは差別的ではないかという論点も考えられるが、話がとっちらかってしまうのでそこは置いておく。)

しかし「元女性の男性が生理用品について解説する」ならどうだろう。他の二つと違うのは「元女性」という部分であり、これをもし気持ち悪くないと感じるのだとすれば、「元女性」と言う肩書きがあるからなのではないか。実際コメント欄には「元女性」であることを強調するものがたくさんあった。しかしいくら彼らが昔「彼女ら」だったとしても、今は「彼ら」である。ならば今の彼らを、ビフォアの部分ではなくて、純粋な男性として、内容についてわたしたちは評価をするべきではないか、というのが多分言いたいことなんだろう。あなたたちは「男性」であることよりも「女性」であったことを積極的に評価してしまっているのではないか、それはあまり良いことではないのではないか、と。

ただ僕がまず思うのは、この動画において彼らは冒頭に元女性であることを自ら主張しているわけで、であるからして、それ込みの評価をされることについて彼らは特に不満を持ってはいないんだろうと思う。むしろサムネにドドーンと「元女子」って書いちゃってるくらいだし、狙ってやってると言ってもいい。だから「動画作成投稿してる彼らにとって差別的か」と言われると多分そうではない。しかし彼ら以外の、元女性で現在男性の方々がこの動画や書かれているコメントを見た場合に、不快や怒りを感じることは十分考えられるだろう。つまり、たとえ彼ら自身が「元女性」として扱われることに抵抗を感じていないのだとしても、彼ら以外の、過去女性であったことを強調したくないとか、隠しておきたいとか、そういう風に扱われたくないと思ってる男性にとっては、こういう動画は「男性」と「元女性の男性」の差異を強調してしまう差別的コンテンツである、と感じられるかもしれない。「これは差別じゃないか」とコメントした人(その人は「自分はFTMである」とも書いていた)はコメント欄において半分荒らしみたいな扱いも受けていたが、僕はむちゃくちゃを言ってるとは思わなかった。一理あると思った。

 

監視カメラと『ザ・サークル』

電車内における痴漢は非常に多いので、それを防ぐために電車に監視カメラを置けばいいんじゃないか、という意見がある。また、この間もラジオで「国会中、ちゃんと議員が寝てないか確認するために、政治家一人ひとりに監視カメラをつければいいんじゃないか」という意見を聞いた。そういう意見を聞いたときに思い出すのが『ザ・サークル』という小説だ。

ザ・サークル』では、近未来のソーシャルネットワーキングな世界の中で、皆がポジティブに監視社会を望んでいく過程が描かれている。その中に、両親の病気を治すことと引き換えに、自分の両親の実家内に監視カメラを置く、というシーンが出てくる。

この時点で、主人公はすでに自分自身にカメラをつけて、自分の生活を全世界に公開して共有する、そういう状況になっている。具体的には、主人公の視点から見える、起きてから眠るまでのあらゆる状況(ただしトイレと風呂、睡眠の際はカメラのスイッチを切ることが許されている)がインターネットを通じて全世界で生放送されている。何もかもが筒抜けになっているのだ。僕から見たら相当むちゃくちゃなことをやっているなと思ってしまうが、「監視のない状況だと人間はおかしなことをしてしまうのであなたは監視される必要があるし、やましいことをしていないならなおさら監視カメラを拒否する理由がない」という論法によって、主人公の監視は肯定されている。

ある日、主人公が「実家は今どんな状況なんだろう」「あわよくば両親と話したいな」と思い、実家の監視カメラの様子を確認する。すると自分の両親がセックスをしている映像がバーっと流れてくる。主人公は自分自身にカメラを付けているので、自分のカメラを通して両親のセックスが全世界に公開されてしまった。慌てて主人公は首を振ってカメラを動かすがもう遅い。続いて世界中からの慰めの声が主人公にじゃんじゃん届いてくる。彼女はひどく落ち込む。その後、ショックを受けた両親は自分の家から監視カメラを外してしまう。

ここで僕が言いたいのは、「合理性」で許されない部分てありますよね、てことだ。たとえば殺人事件のうち、家庭内で起こるものは非常に多い(ドラマ『アンナチュラル』でも語られていた)ので、じゃあ殺人事件を減らしましょうとなったときに、家の中に監視カメラを置くというのは「殺人事件を減らす」という一点においては非常に合理的な手段である。しかし合理的であるからといって倫理的に許されるか、という問題があるわけだ。

「監視カメラを置けば防犯効果もあるし犯人も捕まりやすくなるし」なんてことを僕たちは簡単に言ってしまいがちだが、監視カメラを置くことで、つまり「自分が監視されている/監視できる」ことによって、そしてそういう意識を持つことによって起こるデメリットについてもちゃんと考えなきゃいけないなと思う。

単純に監視カメラを置くことに反対って言ってるわけではない。なぜだかメリットばかりが強調されていて、デメリットについてあまりにも触れられてなくない? 「監視」というのが一体どういうものなのか、あんまり考えられてないのでは? と思ったのだ。

ザ・サークル

ザ・サークル

 

とりあえず信じてみるしかない

映画『羊の木』を見た。

hitsujinoki-movie.com


映画『羊の木』 予告編

六人の元殺人犯が仮釈放され牢屋から現実世界に帰ってきたとき、一体何が起こるのか。という映画。

 

僕は昔、世の中には死んだほうがいい人はいるのだろうか、ということについて考えたことがある。具体的には人を殺したことのある人間を助けたいと思うか、と聞かれたら大抵の人は助けたくないし関わりたくないと答えるだろう。なぜなら過去に殺人歴のある人間なんて、どんなひどいことを自分にしでかすか、あるいは自分の周囲の人間にしでかすか、を考えるとどうしても受け入れがたく思ってしまうからだ。彼らを助けることよりも自分たちが助かることの方が重要なのだ。

しかし殺人犯を社会が受け入れる必要はあるかと言われたら、客観的に考えればある。受け入れないと彼らはどこにも働く場所がない、働く場所がないとお金が手に入らない、お金が手に入らないと再び人を殺すか、あるいは強盗か何か、犯罪をするしかない。お金が入れば、刑務所に入れば生活ができる。そして刑務所を出ると同じことをする。生活できないからだ。結果、再犯率は上がり被害者は増える。負のループである。故に社会全体としては彼らを積極的に受け入れる必要がある。

だから個人としては拒否反応が出てしまうとしても、上記の理由(再犯率の上昇、被害者の増加)により社会が彼らの更生に関わることに反対かと言われたら反対はしないだろう。しかしあなたが助けないと言ったとして、では誰が助けるのか。大抵の人は助けたくない、じゃあ誰が助けるのか。社会が助けてくれるのには賛成だ、じゃあその社会は誰なのか。社会は自分ではないとみんなが思っているなら、誰も助けないんじゃないのか、と僕は考えた。

 

この映画は、もし社会(あなたでありわたしでもある)が元犯罪者の更生に積極的に参加させられたとして、その結果何が起こるかということの一種のシミュレーションになっている。彼らが良い人間なのか悪い人間なのか僕たちには全く判断ができない。一見良さそうな人間に見えて実際に良い人間なのか、一見良さそうな人間に見えてそうではなかったと思いきや良いところもある人間なのか、一見悪そうで実際に悪い人間なのか、それをどうやって知ることができるのか。手っ取り早い手段が一つある。コミュニケーションだ。だからこそ事情を知ってる主人公も、何にも知らない町の人たちも、六人全員とちゃんとコミュニケーションを取ろうとする。その結果、ある場面ではうまくゆき、ある場面では失敗する。

 

この映画を見ながら本当に思うのは、とにかく信じてみるしかないということだ。元殺人犯側の立場でも、町の人側の立場でも。この映画において、彼らは自分の過ちをきちんと相手に懺悔することによって、そしてそれを相手が許すことによって、居場所を獲得し安全な生活を手に入れる。彼らは相手を信じ、自分のことをさらけ出し、「助けてくれる誰か」を見つけることで社会に居場所を得ることができる。それがどうしても言いたくない秘密であったとしても。そして私たちは、さらけ出してくれた秘密を受け入れることで、彼らに居場所を与えることができる。それがたとえ元人殺しという過去であったとしても。

逆に、たとえ濃い関係性を作ろうとも、自分の秘密を告白せずに人間関係を続けようとすると、それはどこかで破綻する。じっさい作中において、主人公は六人のうちのとある一人と深く関わった末、大変なトラブルに巻き込まれる。彼と関わりを持たず見て見ぬ振りで済ませておけば、主人公がひどい目にあうことはなかったかもしれないが、彼がどんな人間なのかブラックボックスの状態で彼を助けるかどうかと言われたら、それは助ける必要があると考える方がよい。その方が良いはずだ。彼がどういう人間なのかどうかは彼と関わらない限りわからない。わからないなら悪なのか善なのか普通なのかグレーなのかわからない。つまり受け入れる受け入れないの判断ができない。ならば関わるしかない。

コストを払うのが面倒くさいので全部まとめて拒否します、なんてことはもう許されていない。「ある集団の中に危害を加える人間がいそう」なことはその集団を拒否する理由にはならないのだ。現代社会でそういう楽をすることはできない。白人より黒人の方が犯罪率が高いらしい。女性より男性の方が犯罪率が高いらしい。では黒人と男性は殺すべきか? 言うまでもない。ISISがイスラム教徒だからといってイスラム教徒全員を殺すことは許されていないし、北朝鮮拉致問題があるから、北朝鮮が日本を敵国認定しているから、ミサイルを海上に撃ってきてるからといって日本に住む北朝鮮国籍の人間をスパイの疑いで全員殺すことはできない。そしてそれは正しい。

ならば同様に元殺人犯の彼らも社会から拒否されず、社会に帰ってゆくのだし、帰ってゆくなら生活ができるような手助けがなくてはならない。六人の中の誰が善良で誰が邪悪なのかどうなのか、第一印象で取捨選択をしろと言うのは無茶だ。この世界にはまだシビュラシステムが存在していないのだから(シビュラシステムが正しいシステムかどうかについては置いておく)。

 

僕はあなたのことを知らないけど、あなたと仲間になろうと思ったら多少腹をくくってもあなたのことを信じるしかないのだ。あなたが実は裏切り者だったとしても、それを最初から判断できる術はないし、印象で判断すること自体が差別に加担することになるかもしれないし、だからとりあえずでも信用するしかない。あなたと関わらない限り、あなたが僕に危害を加える人間なのかどうか、僕のことをわかってくれる人なのか、判断することができない。あなたは僕と関係のない人間なので知ったこっちゃない、と切り捨ててしまうことは、あなたがあなたの人生を悪化させる、あるいは自分の人生を悪化させる、引いてはこの社会を悪化させる手助けになってしまうかもしれない。