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人格差別

現代は人格差別が基本OKになってる世界である。一応、外見の差別は良くないってことになった。実際に差別がなくなっているかは置いといてだ。ただし内面の差別はいくらやってもOKである。どんなに人格を馬鹿にしてもお咎めなし。人格に問題のある人間は非難されて当然。理由? 自明だろう。「わたしたちのコミュニティを破壊しようとするような人間は要らない」そう思うでしょ?

障害って枠を持ってたり、精神に問題を抱えていると許されることもあるかもしれない。ただそういう「診断」を受けてない場合、つまりとある人が「普通の人間」だと認識されている時、その人の人格否定は自由にやっていいことになる。

たとえば太っている人に「運動すれば痩せるのにそれをしないのは甘えだ」と言うのは、少なくとも今は駄目ってことになったが、これが「人格」ならばいくらやっても全然大丈夫。「努力が足りない」とか「甘えてる」とか。もっと酷いことを言ってもいい。「クズ」でも「頭おかしい」でも「キモい」でもなんでも。まあコミュニケーションが一番大事、って時代になっちゃったからね。仕方ないね。

『くたばれインターネット』とてもいい

『くたばれインターネット』という小説がずっと気になっていて、最近ようやく読む機会に恵まれた。まずタイトルが最高でしょ。「くたばれインターネット」だぜ。そして内容も最高だった、「だった」と言ってもまだ全部読んでないどころかちょっとしか読んでないが、だいたいどんな話なのかはわかった。そもそも「話」と言っていいのかわからないが。

むちゃくちゃなのだ。とにかくむちゃくちゃ。以前『さらば、シェヘラザード』という小説を読んだときもなかなかめちゃくちゃだなと思ったが、これはそういうレベルではない。そもそも小説的なフォーマットを完全に無視している。体裁をなしていない。果たしてこれは小説と言っていいのか? 一応ストーリーっぽいものはある。あるがあんまり関係ない。まあストーリーより描写が大事ってのは純文学で言われてることではあるが、この小説? のような何かは、描写すらない。文体はある。文体はとてもいい。好みだ。思想(っぽい)ものもある。いやあるのか? 多分ある。それ以外特に何かあるとは思わない。いわゆる一般的な小説としては。

『くたばれインターネット』が小説なのかどうかについては置いといて、まず間違いないのはこの本が「インターネット」であることだ。読んでいると、まるでPCもしくはスマホを立ち上げ、だらだらとインターネットの文章を読んでいるような気持ちになってくる。僕(あとたぶん皆)がいっつもやってること。それを本の中でやってる。ストーリーっぽいものが始まったと思えば脱線し、黒人白人に関する歴史のようなそうでないようなエッセイが始まり、再びストーリーに戻ったと思えば即座に脱線しエッセイが始まる。とにかく大量のオピニオンを読まされる。端的に言うとネットサーフィン小説。そんな小説が世間に認められるのであればだが。実際この本すごーく人気で12ヶ国語に翻訳されたらしいから、認められたわけだけどな。

この本にはTwitterFacebookや文学やマーベルコミックスに対する印象的な文句がたくさん出てくるので、その文句を読んで喜んだインターネットの人たちが一部を切り取って流している。僕はTwitterで見た。インターネットっぽい小説をインターネットの人がインターネットにアップするの、なんか色々逆転してるような気もするが、たしかにこの小説、インターネットに引用したくなるような文章が多い。それに習って僕も一部引用してみようと思う。

文芸作品というのは上流階級の人間たちによって用いられる術語で、無目的な性行為を、本質的には抵当程度の役にしか立たない諸々の物事に関する、ぐだぐだと回りくどい思考過程と結びつけて展開される種類の書物を指す。これらの方が、無目的な性行為を銃や暴力と結びつけている種類の書物よりは、よほど有益だというのだ。

こういう気の利いた嫌味を延々と読みたい人(というか、この文章を読んで「気の利いた嫌味だな」と思えるタイプの人)には、この本はオススメ。

自分を棚上げして映画『勝手にふるえてろ』についてクダを巻く、ネタバレ有

勝手にふるえてろは映画版しか見ていない。それを踏まえて聞いてほしい。

 

あの映画は基本的にヨシカ側からの視点しかないので、イチ、ニという人物が実際どういう性格で、どういう生活を送っていて等の具体的な情報が一切描かれない。イチは随分自由な、自由でありたいキャラクターらしい。それはわかる。しかしその自由が一体どのような自由なのかについては語られない。とうとうイチと直接向き合う段になっても、ヨシカはイチから言われた「君は誰」の一言でシャッターを下ろしてしまう。ニは明らかにコミュニケーションが下手くそだが一生懸命なやつ、くらいのことはわかるが、具体については語られない。彼がヨシカに近づくために飲み会? パーティを企画する時、LINEを交換しようと提案する時、デートに誘う時にどんな葛藤があったのかは一切わからず、ヨシカは眼前に迫るニの実際のみをもってドン引きしたり嫌な顔をしたりする。

 

なんというか、イチに対してもニに対してもヨシカは基本的に受け身であり被害者だ。そう、被害者っぽい。だからこそ、絶滅した動物の話題でイチと散々盛り上がった後に名前を知らないと言われてダメージを受け、付き合わない? と自分でニに言った後にキスされそうになって逃げ出す。土台を自分で作っといて壊してしまう。イチが好きならたとえ名前を知られてなかろうが、話が合うのだからそのまま関係を1から進めることもできるし、ニにドン引きしたなら拒否すればいい、付き合う気があるならキスをしろ(結果したわけだが)。

 

でもまあイチはまだいいか。ニだよニ。ここからは僕の想像だが、なんかニってちょっと成長したヨシカっぽいんだよね。下手くそなりに関係を進めようと努力したり、告白したり。色んな人に頼るし。ヨシカver.2.0的な。だからニの内面が描かれてないのが気になっちゃうのかもしれない。もしこの映画の主人公がヨシカじゃなくてニだったら、きっとヨシカ的な部分が描かれてくるんじゃないの、ニがカフェに行って喋ったことない店員と妄想で会話するシークエンスとか出てくるんじゃないの、まあ想像だからわかんないけど。

(追記:ここではこのように書いてしまったが、恐らくニの場合、妄想で会話をするというよりかは、実際に店員に話しかけてはみるものの、ヨシカに対する時のような、相手に微妙に不快感を与える失敗をしでかすのではないか。)

 

ただ多かれ少なかれ、こういう情報の非対称性みたいなものが恋愛というか人間関係なのかもしれないな。自分自身への掘り下げは過剰なほどなされているのに対し、相手について把握できる事象の範囲が狭すぎるために、自分と相手を比較した際、どうやっても相手が記号化されてしまう。じゃあ記号化をどうやって防ぐかっつってもさ、死ぬほど相手に聞きまくるくらいしかできることはない。それ以上は犯罪でしょ、というか聞きまくること自体相手に迷惑かもしれないし、もうどうしょもない。なんとか妄想で余白を埋めてくしかないよね。するとそれはそれで妄想は事実ではないので問題が起こるのでは。ああ地獄だ。