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ドライブ・マイ・カー 初見ネタバレレビュー

前作『寝ても覚めても』は震災を扱った映画だったが、今作に関してはより普遍的なテーマを扱おうとしている。自分にとって大切な人を失ってしまったときに、僕たち私たちはそれをどうやって受け止めていけばいいのか。

主人公は妻の音と深く愛し合っていたが、あるとき音が自分以外の男性とセックスをしている様子を見てしまう。そして、音は他の男たちとも関係を持っていたんだということを知る。しかしそれを音には伝えないまま、ある時音は亡くなってしまう。

話の流れとしては、まず亡くなってしまった音の秘密についてどう扱ったらよかったかを考えるところからはじまる。次に、とある理由によって主人公のドライバーとして雇われたみさきから、私もかつて大事な人を失ったこと、その人のことを理解できなかったことが語られる。

その後、主人公の演出する舞台に参加することとなる高槻によって、主人公が音にその秘密を伝えなかったことで、音は逆に苦しんでいたのではないかということが示される。

高槻は舞台稽古中、銃を撃つ場面において、殺しに失敗するシーンを演じるはずが、本当に殺してしまったかのような演技をしてしまう。「チェーホフは恐ろしい、自分の心が丸裸になってしまうから、私はやりたくない」と主人公は言っていた。 この時点ですでに、高槻は実際に相手を殺す罪を犯しているのだ。丸裸になってしまった結果、高槻は殺す演技をしてしまった。その後警察がやってきて、自分の殺しについて、皆のいる前で「私がやりました」と白状する。

ある意味では音の逆だ。音のほうは自分のした罪が永遠に認められない。私は悪いことをしたと思っているのに、それを旦那は見て見ぬふりをする。そして亡くなってしまう。高槻の場合は自分がやった罪について、きちんと罰せられる。高槻が車の中で主人公に話した物語が本当に音が語ったものかどうかはわからない。音の話を聞いて、まだ罰せられていない自分のことを考えて、思わず創作してしまった可能性もないとは言えない。しかしどちらにせよ、彼がなぜ涙を目に溜めながらあの話をしたのか考えると、その話自体について共感している瞬間であったこと、が関係しているのは間違いないだろう。自分の犯した罪が永遠に認められないとするならば、それはどんなにつらいことなんだろうか、と。皆の前で「私がやりました」と白状した瞬間、きっと彼はほっとしたはずだ。

最後にみさきが、秘密なんてなかったのではないか、自分が見えていたものをそのまま受け取れば、それでいいんじゃないかと言う。ここで最初に主人公自身が言っていたセリフに戻ってくる。音はいろんな男性と関係を持つ人であったし、それと同時に主人公のことを愛していたのだ、と。これはみさきの母親が暴力的な人格と幼児的な人格の二つを持った人間であったことと重なる。みさきはおそらく、母の対照的な人格をそのまま受け止めることによって、自分を許すことができたのだ。むしろ大事なのは相手がどういう人間だったかではなくて、自分自身の心と正直に折り合いをつけていくことである、と彼女は言う。

結論としては、相手のことがわからなくて、私のせいで相手は死んでしまったかもしれない、相手は苦しんでいたかもしれない、と、相手の内面についてあれこれ考えて、様々な悪い想像をしてしんどい気持ちになったところで、結局相手のことは自分が把握できる範囲でしか理解できない。できることは自分自身がどうやってその事実を受け止めていくかでしかない、となる。

そして、誰かを失ってしまった人が、その喪失と向き合うためには、同じく失ってしまった人々と語り合い、お互いの苦しみを共有することが重要である、となる。

脚本がうますぎない?

 

 

ということを踏まえた上で、ここから最悪の感想を書くけど、別に相手が生きてようが死んでようが、取り返しのつかなくなることはたくさんあるよ。会っておけば良かったとか、言えばよかったとかいうけど、会えないし言えないことはある。どうにもならない。悲しいけれど。