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文体に影響される/されない

ブローティガンの小説を読みながらそのまま眠くなって寝たら、夢でブローティガンの文体風(正確には藤本和子の翻訳した~)に文章が流れてきた。目が覚めてからもしばらくブローティガンの文体風に考えていた。

こういうことってよくある。町田康読んでる時は町田康の文体っぽい文章が頭の中に出てくるし、滝口悠生読むと滝口文体、上田岳弘読むと上田文体、って感じで、小説を読む度に小説の文章につられてしまう。読んでからしばらく経つと元に戻るんだけど、そうではない、例えば読んだ直後にブログを書こうとすると、露骨にさっきまで読んでいた小説の影響が出る。そういうのが、実はけっこう好きだ。僕は自分の文体にそんなに自信がない。下手くそだなあと思うことばかりである。けれども他人の、しかも市場である程度の評価を獲得している小説ならば、世間的に素晴らしい(少なくとも自分よりはるかに素晴らしい)ものである保証が付いているわけだから、安心して書くことができる。

ただ、村上春樹が以前、自分の文体を真似されることについて、「いくら僕(村上春樹)の文体を真似たとしても、その人の個性というものは現れてくる*1」というようなことを言っていた。要は僕がいくらブローティガンに影響されてブローティガンっぽい文章を書こうが「僕の文体」は現れてくるわけだけども、それでもやはり影響されて書くほうが圧倒的に楽なのだ。実際に僕の個性が出てきていることよりも、これは他人の文体で、他人の褌で相撲をとっていると「思い込める」ことが僕にとっては大事なのだ。社会的に評価が高いものである、という「根拠」が僕にある程度の自信をを与えてくれる。おかげで安心して書ける。逆に言えば、そのくらい自分に自信がないわけだけども。

むしろ、影響がすぐに消えてしまうことのほうが不満である。せっかくその人の文体を自分の中に取り込めた(あくまで自分なりの解釈で取り込んだわけだけども)のに、勿体無いと思ってしまう。この前頭の中に浮かんでいたブローティガン風の文章が今書けていないのもそのせいだ。夢と一緒に綺麗さっぱり消えてしまった。

*1:そもそも村上春樹自身、ブローティガンから多大な影響を受けているわけだし