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かぐや姫の物語を見る(まだ見てない)

かぐや姫の物語、まだ見てないのだけれど、見た人の感想は読みあさっている。

今回はあえて、自分が見る前にそうしてみようと思ったのだ。少なくともネタバレの心配もない。原作のストーリーなんてはじめからわかっているし。かぐや姫は最後月に帰りましたとかネタバレかよ! なんてことにはまずならない。龍馬伝で龍馬が死ぬってこと言った人がネタバレやめて下さいと文句を言われたという、ネタなのかマジなのかわからないやつが前あったけれど、僕はそういうタイプではない。

感想の傾向については、この作品が竹取物語ではなく、かぐや姫の物語になっているのだということでかぐや姫はなぜあんな行動を取ったのか、あんなことを言ったのか、そういうところに着目して書いている人と、またこれはアニメだから当然のことと言ってもいいが、高畑監督が生み出した映像表現がいかに素晴らしい物なのか、これを語っている人、半々くらい居た(個人調べ)。

ところで、なぜここまで感想を読みあさっているのかといえば、それは僕の面倒臭さが原因にある。一旦自分で映画を見て、それから他人の感想を読むと、また見たくなってしまうのだ。色々な人の色々な感想に、僕が気づかなかった描写や考察を見つけてしまう。するとどうしてももう一回確認したくなってしまうのである。ただし非常に面倒くさい。ならば一回で全部済ませたほうがお得だし楽だ。それは風立ちぬの時にも感じたし、まどマギの時にも感じた。どこかのブログかまとめサイトで、「本を読む時、わざと最後のページを見てオチを知った上で最初から読み始める嫁さんがいて、俺は嫁さんの気持ちわからないんだよなあ」といった話を読んだことあるけれど、僕の思っていることは恐らくその嫁さんの気持ちにかなり近い。

僕がなぜ小説を読むのかといえば、単純にストーリーを追いたいからではないのだ。ストーリーを知りたければあらすじだけ読めばいいのだから。そこであえて小説を読むのは、あらすじだけではない、文体やら描写やら心情やらの、そういう、身も蓋もない言い方をすれば無駄な部分があるからなのだ。これがアニメや実写であれば、演出やら雰囲気やらそういうところに行くのだろう。そういう無駄があるからこそ僕は創作物に触れるわけだ。

例えば最近僕は谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んだ。谷崎潤一郎ってのは文章読本によると、とにかく無駄を削ることが文章の美しさを作る、という意識を持っている人らしい。確かに彼の文章はめちゃくちゃ美しい。それがどう美しいかを表現するのはあまり得意ではないので、とりあえず『痴人の愛』の一節を載せる。

ナオミは今しも、風呂の帰りに戸外の風に吹かれて来たので、湯上がり姿の最も美しい瞬間にいました。その脆弱な、うすい皮膚は、まだ水蒸気を含みながらも真っ白に冴え、着物の襟に隠れている胸のあたりには、水彩画の絵の具のような紫色の影があります。顔はつやつやと、ゼラチンの膜を張ったかの如く光沢を帯び、ただ眉毛だけがじっとりと濡れていて、その上にはカラリと晴れた冬の空が、窓を通してほんのり青く映っています。

うーん美しい!あとエロい!

いいんだ、これはナオミという人間がいかに魅力的な人間なのかをひたすら書き綴っただけの作品なので、エロいという感想で合ってるんだ。

ともかく僕は、彼の無駄を削るというのを、安易にレトリックを捨てたり、文体を崩すことではなく、出来る限り最小限の文字数で、レトリックや文章の癖を表現することと解釈したのだ。故にこのナオミの執拗すぎるほどの描写も、僕は必要なものだと受け取ったしそう思っている*1。描写を削ってしまうのではなく、できるかぎり残しつつも自分の表現したいことを表現する、と。そこで残ったものは「あらすじを追うための物」としては無駄かもしれないけれど、前述したように、その無駄な部分こそ創作物に触れる一番の理由になりうると思っている。

こういった理由で、初めに感想を読んでしまったというわけだ。すると、うーんそれなら感想見るのはおかしくね? あらすじ知ってんだから、と自分の中で矛盾を感じ始めたので言い訳をする。僕みたいな馬鹿にはその表現が何を指しているのか、その演出はどういう意図で行われたのか、そういうことがわからないので、事前にそれを理解しておくために感想を読んだのだ。小説ならまだしも、特に映像作品においては殆ど無知な上に知識も乏しいので、事前に知っておく必要があったのだ。

 

なぜかぐや姫は月から地球に送られたのか。

なぜ求婚してきた男たちに無茶な要求をしたのか。

など、徹底的に彼女の気持ちに寄り添ってこの作品を見たいと思います。

そして勿論、映像表現の美しさにも目を凝らしたい。

*1:文章読本が出されたのは『痴人の愛』に比べるとだいぶ後である。ちなみに彼は『痴人の愛』辺りで西洋を重んじる文学ではなく、東洋、いや日本を重んじる文学に転向した。故に文章読本出版時、痴人の愛出版時で持っている信念は違うのかもしれないが、僕はこう解釈したのだ。