なにもしらない

アニメ、音楽、本、映画、ゲーム、インターネット

妄想で書いてみた

とある人が、他人によってAという属性を見出されると、もしその人がAの属性からずれた場合、「あなたはAだったはずではないか、なぜそこから外れた言動をするのだ、あなたはAなのだからAらしい言動をとらなくちゃあおかしいではないか」などと批判されることがある。

というかそれ以前の問題として、たとえば他人があなたのことをAだと規定した時、「今までそんなことは思っていなかった、けれども他人にそう言われるならば、もしかして自分はAなのかもしれない」と思ったりする。だがAってのが具体的にどういう属性であるのか、についてはあんまり詳しくない。

そのうちAの枠から外れた言動をしてしまう。「あなたはAであるはずなのになぜそんなことをしたのだ」と批判される。なるほど、どうやらこれはAという属性とは違う言動らしい、自分はAだからAらしい行動をとらなくちゃいけないな、改善しなくちゃ、と思う。自分がAだと言い出したのは自分ではないのにもかかわらず、である。

Aには何を入れてもいい。オタクでも腐女子でも左翼でも右翼でも男でも女でもなんでも。

多重人格

アニメ『すべてがFになる』を見た後ツイッターを眺めてたら、あの時犀川先生が言ってたのはもしかしたらこういうことなのかもしれないな、と思った。

とあるツイッターユーザーがサブ垢を持ってたことが判明して、しかもそのアカウントではメイン垢とは違う立場に立って主張をしてたそうで、色々と批判を受けているみたいだ。

すべてがFになる』の主人公?である犀川先生は、真賀田四季の多重人格について「純粋」だと言った。ほんらいはそうあるべきなんじゃないか、と。

元々人はいろんな思想を持っているのにもかかわらず、大人になるにつれ次第にそれをなくそうとする。統一感のある人間を目指そうとする。だからたとえば一人の人間の発言に矛盾が見られた場合は、当然批判にさらされることになる。それは一般的に言えば確かに正しい。しかし人間としてそれは不自然なのではないか。様々な人格、考えを自分の中に持つことこそが、本来の人間のあり方なのではないか。

デジタルネイティブ世代は複垢を持つことが割と普通らしい。世代ではない僕には複垢を作るって発想がどうしてもできない。だからいろんな場所に一つのアカウントを作っているわけだ(hatenaもその一つ)。けれども彼らにとっては普通のことなんだろう。そしてそれは、本来的には自然なことなのかもしれない。

キモいのはそいつじゃない

jkjg.hatenablog.com

キモいのは俺かっけーと思う俺自身の「自意識」だってことに最近気付いた。スタバでマックブックエアーをカタカタやってる人=キモいのではない。「マックブックエアーをスタバで使うような人間はそういう環境に自分を置くことに酔ってるんだ」と僕が思い込むことによってその人はキモい人になるわけだ。つまりキモいのはそいつじゃなく僕である。